部屋の荷物を整理していたら母親の日記が何冊も出てきた。
部屋の中には段ボール箱にいくつも荷物が積み上げられている。そのうちの多くには本が入っていて、残りにはわけのわからないものがいろいろ入っている。
どれも、数ヶ月前古い家から引き上げてきたものばかりである。古い家はリフォームして人に貸すことになったので、荷物を置いておけなくなったのだ。
古い家にはとんでもない量の荷物があって、大半は「ゴミ」といってもいいようなものばかりだった。でもかつてその家に住んでいたものにとっては、そう簡単に割り切れるようなものでもない。
で、それを処分するのに大変な苦労があったのだけど、そのことはまたいつか気が向いたら書くことにしよう。
結局ほとんどのものは捨てられ、残りの「わずか」な荷物が私ときょうだいたちの家に運び込まれた。
「わずか」と括弧で括ってみせるくらいだから、決して少ない量ではなく、それぞれの家庭生活を多少圧迫しているようだ。
私のところは一人だけだから家庭とはいえないかもしれないが、荷物が生活を圧迫していることに変わりはない。生活というよりも空間を圧迫しているという方が当たっているかもしれないが。
そんなありさまだから、少しでも早く片付けてしまえればよいのだけど、なかなか体力や気力が付いていかない。ただ捨ててしまえばいいようなものもないではないけど、多くは取っておきたいものであるし、そうでないものでもシュレッダーに掛けずに捨ててしまうのは気が引けるものであったりするのだ。
でも今度、新しい家具を置くことにしたのだ。カラーボックスに入りきらずにその手前に積み上げられたＣＤが部屋をかなり狭くしているので、思い切ってＣＤが七百枚くらい収納できるラックを買ったのだ。
届くのに数日掛かるので、それまでに置き場所を確保しなくてはならない。残念ながらＣＤを入れてあったカラーボックスの代わりに置くには大きすぎて、新たな場所を捻出しなくてはならない。
そういうわけで持ってきた荷物の整理に着手せずにはいられなくなってしまったわけだ。段ボール箱を開けて、中身を調べて、物によっては本棚に、物によっては処分、すき間のできた箱に他の箱の中身を入れる、というようにして体積を減らしたり。
でも、箱の中身の多くはぎっしり詰まった本だったり、整理するのに丸一日かかりそうな手紙だとか書類だとかそんなものばかりで、あまりうまく行かなかった。というか困った。もう一度どうにかならないかと雑多な物の詰まった箱を開けてみると、大学ノートが何冊もポリエチレンの袋に入れてあるのが目に入った。引っ張り出してみると母親の日記だった。
母親の日記が存在することは、たぶんそれをその箱に詰める時に気が付いていた。でもそれを書いているのを見たことは一度もない。あるいは見たことがあってもそれが日記だと思ったことは一度もない。
調べてみると、二十数年に及ぶ日記が十冊くらいのノートに書かれているようだった。どれも表紙に書き始めと書き終わりの日付があり、最初の二冊には「Ｂ」「Ｃ」と書かれていた。たぶん「Ａ」も存在したのだろう。失われてしまったのか、どこかに紛れているのかは今のところわからない。
あちこち拾い読みしてみる。
母親は私と違って達筆の方なので、ところどころ読みにくいけど判読不可能ではない（私の手書の日記は悪筆で読みにくくて判読不可能とかいわれるのだろうな。もしあとで誰かが見つけたとしたら）。どうやら、今の私と同じ年齢か、少し上くらいから書き始めたらしい。
あちこち拾い読みしてみると、まあいろいろな気持ちがこみ上げてくる。そのことについてはまた機会があったら書くかも知れない。
いま、私の注意をいちばん引いたのは、比較的初期のもので、鏡台について書かれたものだ。これを見つけたのは比較的最初の方にあったということを除けば偶然だ。すべてのノートに目を通したわけではないし、こういう記述を探していたわけでもないから。
ぎょっとした、というかぎくりとした、というか胸がちくちく痛んだ、というか。
引用するのは気が引けるけど、でも引用したい気持ちの方がずっと強い。
気に入らなかったら、夢枕で文句言ってくださいね、お母さま。
四月二十日
ひさびさに 押入の奥から
とり出し 組み立てた 私の鏡台。
頭から 足のつま先まで 一面に
うつし出す 一面鏡。
結婚して間もない日、 夫とともに
伊セ丹デパートへ行き、
母の指図を胸の内に
自分の好みと合わせて買った
思い出の一面鏡。
過ぎし日、 この鏡にうつった私は
二十五歳の若い妻。
娘らしさを残し、 はちきれそうな女ざかりの
私だった。
今ここにうつるのは ややふとった
中年の主婦の姿。
それは私。
姿は変わっても それはやはり私。
嬉しい時は 朗らかに
悲しい時は暗く沈む私の顔。
食物をおいしく感じ、
傷つけば 痛みを覚える私、 その人。
これからの行く手、
長い時を経るにつれて
変って行く私の姿。
鏡の中に まじまじと見つめ
見守ってゆく私の姿。
一人の人間の歴史を
ありのままに うつしてみせる鏡、
私と共に すごす何十年を
ひと言も喋らずに 真実を
私に知らせてくれる友
或時はやさしく、 或時は情容赦なく、
或時は おそろしくさえある友
いつの日か、 私の魂なり愛なりが
きらきらと反射する 鏡面の一端になりと
宿ることは無いのだろうか。
拙いかもしれないけど、詩だ。
拙いかどうか、巧いかどうか、なんてことはどうでも良いことだ。
恐ろしいことは、たぶんこの日記を通して初めて、母親の内面に触れたということだ。もちろん生きているうちに数限りなく会話を交わし、世の中でいちばん多くを知っているかもしれない人間なのだろうけど。
たぶん、書くことによってしか内面は現われない。あるいは一方的に独白し続けるか。だから、生きているうちに一度も内面に触れたことが無くても何の不思議もない。
むしろ、お互いの文章を互いに読み合っている友人たちの内面を、私はより多く知っている。
私が書きたいのはこの詩を読んで母親の内面が理解できた、というようなことではない。確かに知らない一面を知った、というのは事実だが、もう少し別なことを書きたいのだ。というのは、この鏡台のその後の運命。
その後いろいろあって、この鏡台は天板のガラスが割れ、鏡を留めるネジがおかしくなって鏡が勝手に後ろに倒れるようになってしまった。だからいつも壁際に置いてあった。まあ普通鏡台は壁際に置くだろうけど。
母親の死後、壊れてすっかり古びてしまった鏡台は、当然のことながら誰にも引き取られることはなかった。私も引き取らなかった。私が引き取ったのは、引き出しの中に入っていた見たこともない手鏡。そんなものを母親が持っていたことさえ知らなかった手鏡。
鏡台の方は、リフォームの工事を始める直前、粗大ゴミに出してしまった。粗大ゴミのシールを貼って前の晩から家の外に出しておいたのだが、私のいないあいだに回収されていた。
鏡には、私の物心付いた頃から、たぶん母親の手による布製のカバーが掛かっていて、たぶんそれを掛けたまま粗大ゴミに出した。鏡を剥き出しにして置いておくのが嫌だったのだ。
鏡台はあちこち傷ついたり壊れたりしていたのだけど、鏡だけは最後まできれいなままだった。そりゃ、少しくらいの曇りや周囲が欠けたというのはあったかもしれないけど、ひびが入ってしまうとかいうような、致命的なダメージは最後まで受けなかった。
もちろん母親は、私のしたことを咎めないだろうし、咎められる謂われもないと思っている。でも、こういう日記を読んでしまうと、気持ちが少しだけ揺らいでしまう。それはそれで仕方がないし、後悔するようなことでも怯むようなことでもない。そしてまた、そういうリスクを負いながらも日記をあちこち拾い読みしてしまうのだろう。