スープのレシピに手を焼いていた君は突然「こんなの私に作れるはずないじゃない」と叫ぶとフライにするつもりなのか卵や小麦粉やパン粉をたっぷりまぶしたペーパーバックを投げ付けてきた。それはぼくの頭を直撃しそうだったのでひょいと屈むと背後でがちゃがちゃがっちゃーんという大きな音がした。
君はそれもフライにするつもりなのか卵や小麦粉やパン粉をこれもまたたっぷりまぶした両手を口に当ててただでさえ大きな目をいっそう大きく見開いてこちらを見ていた。ぼくは何が起こったかだいたい見当がついていたので振り返ったりはしなかった。振り返るのは想像力のかけらもない大馬鹿野郎と相場が決まっている。君は最初からこっちを見ていたのだから大馬鹿というよりも小馬鹿というところだろう。
でも結局それを片付けるのはぼくなのだ。やっぱりぼくが一番の馬鹿者に違いない。それを片付けているうちに指を切ってしまったばかりか手首まで切ってしまったが君は買い物に出かけていたので手当を頼むわけにもいかずそれじゃあ救急車でも呼ぼうかと考えたのだがそのまえに滴る血をなんとかしなければなにしろどんな理由であれ部屋を汚せば君の怒りが収まるまで頭を垂れて怒号に耐えなければならないから風呂場に駆け込んでバスタブの中に立つと底にたまりつつあったそれを洗い流すために蛇口を全開にしているところへ君が突然帰ってきてぼくを見るや否やごめんなさい私が悪かったわと分けのわかんないことを口走ってしがみつくのでぼくは静かにこう言わなければならなかった。
「救急車を呼んでくれ」
もちろんぼくの判断は正しいものではなかった。エレベーターの中は狭くて担架が使えないというので脳貧血を起こしそうだというのに自分の足で歩かせられ、一階に着くころにはいくぶん落ち着いてきてこれなら救急車など呼ばずとも自分で病院に行けたなと後悔していたところへ「さあどうぞ」と担架を差し出されては断りたくとも断り切れず結果閑人達の注目の的となった次第である。
病院の帰りにスーパーに寄って夕食を何にしようかと物色していると、イカの刺し身が美味しそうだったのでこれにしようと具申すると君は、イカの刺し身なんて嫌いよあんたってかかし連合の役員みたいな奴ねと耳元でささやくと昔取った杵柄とでもいいたいのか鮮魚売り場の前でクラシックバレエを踊り始めた。その身軽さには驚嘆せずにはいられなかったがその場にぼくを残したまま小雨降る往来へと踊りながら出ていったのにはいつものこととはいえ驚愕せずにはいられなかった。ぼくは君への深い愛がふつふつと湧き出るのを感じないではいられなかった。
郵便受けは郵便物でいっぱいだった。
君はぼくが鮮魚売り場から連れてきた舌平目でムニエルをこしらえようと懸命に努力していたがそれはどだい無理なことかもしれないわけで、どうしてぼくに頼もうとしないのかそれが不思議でもあったので聞いてみると自殺未遂者に料理をさせるわけにはいかないと妙にしおらしいことをいうのでついほろりと来てそのまままかせてしまった。
君が再び料理に専念している間にぼくはさきほど郵便受けからとってきた郵便物に目を通すことにした。ベッドに寝転んだまま封を開けていちおう中身を確かめるのだが、どれもこれもどうでもいいものばかりで片端からごみ箱に直行というありさまだった。「郵便物も地に落ちたものだ」とぼくは内心嘆息していたが、いちばん最後の郵便物は重要なものであるように感じられた。差出人は君だった。
「愛しいあなたへ。今晩、糸電話をして遊びましょ。愛しの私より。」
切手にはおとといの消印が押してあった。「今晩」というのはいつのことだろう？もしおとといの晩だとしたら、それはもう過ぎてしまっているから、ぼくは君の願いを聞いてあげられなかったことになる。その願いはぼくにも容易にかなえてあがられそうなことだったので胸が痛んだ。
でも、もしそれが今晩であるなら、ぼくは君の願いを聞いてあげることができる。そう思うと、少し元気が出た。
さて曲がりなりにも舌平目のムニエルが出来上がったのでご飯を食べましょうと君は食卓をすっかり整えてからぼくを呼んだ。去年南太平洋で核実験が行われた日に買ってきたというフランス産の赤ワインのコルクの栓を君が抜くと同時に電気が消えた。何もみえなくなった。
「暗いと何もみえない」と君は不平たらしくいった。ぼくは見えない君の顔を見ようと努めながら「こんなとき電気ウナギでも飼っていたら便利だろうね」というと、君は「電気ウナギってどのくらいの発電能力があるのかしら」と聞いた。ぼくはよく知らなかったので、「それをきいたら電気ウナギもさぞ喜ぶだろう」と答えるにとどめた。
ようやく暗さにも目が慣れてきてろうそくを探し出したがそれはサンタクロースの形をしていた。
「ロマンティックね」と君。
「うん」とぼく。
彼女がワインをグラスに注ぎ、二人で軽くグラスを触れ合わせた。ぼくの友人の「日だまりの思想家」がかつて我が家を訪れたとき彼は右手を左の袖の中に入れそこから三本のフォークと四本のナイフを取り出すと鮮やかな手つきでそれら全部を同時に使ってぼくの作った舌平目のムニエルを平らげたのだった。その時彼がしたのと同じように白ワインの追加を要求したが、却下された。
「なんだかあついわねえ」と君。
「じゃあ、窓を開けよう」とぼく。
窓の開く音。
「そもさん」と君。
「せっぱ」とぼく。
「舌平目ってどんな魚？」と君。
「よくしらない」とぼく。
「あのさあ」と君。
「何？」とぼく。
「私さあ、漁師になりたかったのよね」と君。
「日々の暮らしをおとしめ、経験したこともない漁業を賛美するってこと？」とぼく。
君はすっくと立ち上がるとさあ立ってとぼくを促した。
「足首をつかんで！ちがう！あんたの足首！」
ぼくはいうとおりにした。君は食堂を出ると玄関のほうに姿を消した。間もなく暗闇から声がした。
「いくわよ！」
廊下を走ってくる音がする。そしてぼくの背中に衝撃が走る。
「いち！」（ぼくの背中の上方で）
がっちゃーんという音があたりに響く。
「に！」（テーブルの上で）
ベランダの金属製の手すりが弦のように振動する。
「さん！」（窓の外で、どこにも響かない声）
三十秒ほど馬跳びの馬の姿勢のまま金縛りになった。
それから震えながら、よろけながら、ベランダまで行き、二十メートル下を見下ろした。
停電のためか、真っ暗だった。
停電のためか、エレベーターは動いていないようだった。ぼくは普段だれも使わない非常階段を駈け降りた。
さきほど見下ろした場所は、駐車場になっている。
見下ろした印象とは異なり、そこには薄明るい光が射していた。それはたぶんぼく達がそこに住むようになって始めて意識した星明かりだったろう。
ぼく達の部屋のちょうど真下は植え込みになっていて、いや、どの家の窓の直下も植え込みになっていた。車は３台あった。ぼくはおそるおそるぼくらの家の真下とおぼしきあたりの植え込みに近寄った。その前には真っ赤なカブリオレが幌をたたんで止めてあった。
突然ぼくの目の前に影が点滅し、定着した。振り返ると電灯がともっていた。
ぼくは突然照らし出された植え込みを見て戸惑った。なぜならそこには何も変わった様子がみられなかったからだ。
腑に落ちないままがさごそと植え込みを探していると、背後から誰かが声をかけた。
「何をしてるんですか？」
ぼくは立ち上がって声のする方を見た。でも見えたのはシルエットだけだった。
ぼくは「ちょっと物を落としてしまったので、探しにきたのです」と答えた。この辺に落ちてるはずの死体を探しにきましたなんて言えるはずがない。
「夫婦げんかでもしたんですか？おやあなたはさっき自殺未遂で救急車で運ばれた人ですね」
「なぜそれを知っているんです？」
「さっき見てましたから」
「どうして自殺未遂だって知ってるんです？」
「みんな知ってますよ」
その人はカブリオレのドアを開け、乗り込んだ途端「あっ」と小さいけれども鋭い叫び声をあげた。
「どうかしましたか？」
ぼくは初めてその人の顔を見た。見たこともない顔だった。
真っ赤なカブリオレの助手席のシートにはナイフとフォークが垂直に、並んで刺さっていた。
「あ、うちの･･････」
と口走ってから、君が今日の午後そうしたのと同じように、ぼくは両手で口を押さえた。でももう手後れだった。
ぼくは暗澹たる思いでエレベーターの前に立った。頭を垂れると足元はスリッパだ。情けなくってその場にしゃがみこんで頭を抱えていると、隣に住む親切な男性が「どうしたのですか？」と声を掛けてくれた。ぼくは立ち上がって、「ちょっと立ち眩みがしただけです」と言い訳をした。
部屋の中は暗かった。ろうそくは消えていた。スイッチを動かしてもぜんぜん電気がつかない。少なくともこの部屋だけは、まだ停電が続いているらしい。
星明かりで見る限り、食堂のテーブルの上は惨澹たるありさまで、たとえば一週間前に購入したばかりのペアのワイングラスの少なくとも片方は脚が折れていた。ぼくはそれをみてサンタクロースのろうそくに火をつけるのをやめた。それに、サンタクロースだってすでに首無し死体になっているかもしれないのだ。だとしたら、そんなあわれな姿を見るに忍びなかった。
テーブルの上に、星明かりに浮かぶ、見慣れない物体が一つ。恐る恐る手を伸ばす。紙コップだった。
それは手に取った途端に、ぼくの手を振り切ろうとした。ぼくはそうだと気付かずにカエルでもつかんだときのように驚いて手を放した。
紙コップは床に落ちると、こん、と音を立ててしばらく振り子のように動いていたが、やがてその動きも止まった。
もう一度手に取ると、今度はあまり抵抗しようとはしなかった。
そのかわり、紙コップは振動していた。
糸電話？そうだ君はぼくと糸電話で遊びたいと手紙をくれたのだ。
紙コップを耳に当てる。
「やっと気付いたのね」と君。
ぼくは紙コップに怒鳴りつけた。
「君のせいで十数万円も余計な金を払わなきゃならなくなったよ」とぼく。
「うるさいわねもっと小さな声でしゃべってよいいじゃないそのくらいのお金私とお金とどっちが大事だっていうの？」と君。
「隠れてないで出てこいよ」とぼく。
沈黙。
ぼくは紙コップの底にテープで張り付けられた糸を手繰りながら進んでいった。でもそれはぼくが進むのにもかかわらず、ぴん、と張ったままだった。まるで凧か何かに繋がっているみたいだ、と思った。
そして実際、糸は君が跳び出していった窓から、虚空へと伸びていた。その先には、いったい何万年前のものかわからないような古い光の点がいくつかまたたいているばかりだった。
ぼくにできたのは、星々を眺めることだけだった。
再び紙コップが振動した。自分でも、なぜそうしなければならないのかわからないのに、紙コップを耳に当てていた。
「･･････だったけれど、ありがとう。また、いつか、あんたの作った、舌平目の、ムニエルを、食べさせてね。こんどこそ、からくちの、しろわいんを、よういして、おくわ」
「君は何を言っているんだ？」
ぼくは紙コップを耳に当てたまま。そうつぶやいた。
しばらくして、かすかな声がした。
「また、いっしょに、わいんを、のみながら、あんたの、つくった、したびらめの、むにえるを、たべましょうね」
それ以上、いくら待っても、何も聞こえてこなかった。いつのまにか、糸はふっつりと切れて、垂れ下がっていた。紙コップは二度と何も語らなかった。