青い顔のぼくと白い顔の彼女とのあいだに芽生えた愛情は、海よりも浅く、かといって手賀沼ほど浅いわけでもなかった。ぼくたちの関係はたとえていえば手賀沼のコイと印幡沼のナマズ
いつの間にやら桜の枝先では瞳がつぶやいていた。ぼくたちは春になるごとに必ずそれを自分の瞳と交換したものだが、どういうわけか、いつもその最初のつぶやきを見落としてしまうのだ。
彼女はむっくりベッドから起き上がった。「王様の耳はロバの耳。あなたの耳は猫の耳」彼女はぼくの耳を優しく噛む。「あなたの耳っていつ食べてもおいしいわ私の耳はダンボの耳
彼女の主張によれば「いちばん動物らしいこと」とはうんこをすることだ。彼女が窓際の鉢植えに向かって悪態をつくことは珍しいことではない。「やーいおまえらうんこできないだろう。私はできるんだぞう。お、おまえうそだって思ってるだろう。じゃあ証拠を見せてやる。ついてこい」そういうと鉢植えの一つをトイレに持ち込むのだ。
ぼくは彼女のうんこに付き合ったことはないので、彼女が本当にうんこすることができるのかどうか、確かめたことはない。
彼女の主張する「二ばんめに動物らしいこと」とは食べることである。
厚切りの食パンをオーブントースターに入れる。「おれがいったい何をしたというんだ！」これは奴等の常套句なので気にする必要はない。断末魔の叫びをあげるまで焼き続けろ。
だが、彼女はこれに耐えられない。オーブントースターがチャーミングなベルの音を響かせるまで両手で耳を抑え目を固く閉じ首を振り続ける。ぼくは彼女の首がとれないかと本気で心配する。ベルの音は辛うじて彼女の耳に届くらしい。
彼女はオーブントースターから取り出された、奴の焼けただれた死体に対しては冷酷だ。十グラムのバターを奴の上に乗せるとこうつぶやく。
「聞こえるでしょう、厚切りトーストの上に踊る数百人の人々の歓声が。いまやアレクサンドロスがトーストの上のバターに注目していて、そのとけ方がちょうど牛の舌のように滑らかなのです」
彼女はバターを人差し指と中指で上から押さえ、それからゆっくり奴の体の上を滑らせる。バターはまず中心から一つの角に移動し、そこから順番に、縁に沿って残りの三つの角を巡る。だが規則的な動きはそこまでで、あとは四本の指でバターを潰し、全体に塗りたくる。
彼女はバターの付いた手をぼくに差し出す。ぼくはその手を取るとそっと唇を触れる。それから彼女の人差し指を第二関節の途中まで口の中にいれ、舌全体を使ってゆっくりと舐めまわす。すると、バターと焼けたパンの屑とが、舌の上で、心中する。
そうやって、親指以外のすべての指を味わう。
彼女の視線はぼくの見つめるところのものを見ていた。
テーブルの上の彼女の足は、白い皿の上に載せられている。一方彼女の弾くヴァイオリンは「私を食べて」ところころとささやく。
そっと爪先に唇を触れようとすると、「さっき便座に足を掛けたから、汚いかも」と彼女がいった。ぼくは台所からよく絞ったふきんを持ってきて、指の一本一本、土踏まず、かかと、甲などをよく拭いた。
彼女の足の中指を唇で挟み、爪と指先の境目に舌を這わせる。するとヴァイオリンの音色が少しだけ乱れる。
ぼくはアレクサンドロスではないから奴の死体の上のバターよりも生きた彼女の上のバターのほうにより興味がある。冷蔵庫から出したばかりの二十グラムのバターを手に取ると彼女からヴァイオリンを奪い取る。不服そうな彼女の視線を微妙に避けながら、隣の部屋のソファの上にそっと置く。「お皿の上のなまこじゃだめ？」と彼女はいった。ぼくは黙って彼女のシャツの裾をめくるとへそのあたりにバターをなすりつけた。彼女は椅子に座ったままジーンズの前ボタンをはずし、ジッパーを降ろした。「冷たいよお。ほらこの方がへそがよく見えるでしょ」ぼくは彼女の体温でやわらかくなり始めたバターをへそのまわりに広げる。それからゆっくりと、温められたバターを味わう。
「私の舌は猫の舌 熱い紅茶は飲めません」
彼女の指先がぼくのうなじから唇に向かってゆっくり皮膚の上を滑る。ラズベリーのジャムが、ぼくの皮膚にべっとりと塗り付けられているのだ。
その感触に、たまらず彼女にしがみつく。
「よしよし」と彼女の声がする。
間もなく彼女の歯がぼくの耳を軽く噛む。それから、暖かくぬめぬめしたものが耳朶の内側を這いまわる。ぼくは彼女にしがみついてへそを舌でほじくりながら小さく呻いた。「甘い」と彼女はいった。「私の舌は牛の舌 いずれはシチューになるでしょう」とぼくは答えた。
告白しよう。牛の舌がバターを包囲したとき、赤や黄色の衣装を着けたウミウシ達がサンバを踊りながらやってきて所狭しと自己主張した。だからぼくは、彼女の首を絞めた。
彼女はいつも詩集をまわりに並べていた。ぼくにはそれらが本当に詩集だったのかどうかわからないのだが、彼女はそれらが詩集だと主張していた。
その中には彼女の書いた詩ばかりが載っているものもあったし、彼女の書いた詩が一篇も載っていないものもあった。でもそれ以前に、ぼくには彼女の作った詩と、彼女以外の誰かが作った詩の区別をはっきりとつけることができなかった。
ぼくはそれらの詩集を二種類に分類した。ひとつは、ノートに書き付けてあるもの。もうひとつはなんらかの印刷物の表あるいは裏に書き付けられたり印刷されたりしたもの。
さらにそれらはそれぞれ二つに分類することができた。彼女の筆跡によるものと、そうではないもの。
さらにそれらはそれぞれ二つに分類することができた。文字などを使って書かれたものと、そうでないもの。
つまり、２×２×２＝８通りに分類することができた。
その中のいくつかを覚えている。
たとえば、名刺よりもひとまわり大きい厚紙に印刷された、文字の羅列。
「来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くやもしほの身も焦がれつつ」
それから、ノートに鉛筆で彼女の筆跡で書かれた文字の羅列。ただし、一部しか覚えていない。
「あなたは誰？とは聞かない。
そんなことわかりきっているから。
だってあなたは父であり、母であり、兄であり、弟だ。
そして私の男の婚約者であり、女の婚約者でもある。
婚約者には不思議なことに男と女の二通りしかない。
今からおよそ３７時間前、私はうまれた。
母がうまれたのはその２時間後、
父はその十秒後。
私は誰？
教えてくださった方には薄謝を進呈いたします。」
それからもうひとつ。スーパーのチラシの余白に彼女によって書かれた文字の羅列。
「彼女はバターの付いた手をぼくに差し出す。
ぼくはその手を取るとそっと唇で触れる。
それから彼女の人差し指を第二関節の途中まで口の中にいれ、
舌全体を使ってゆっくりと舐めまわす。
すると、
バターと焼けたパンの屑とが、
舌の上で、
心中する。
そうやって、
親指以外のすべての指を味わう。」
最後に、印刷物の一部を破り取ったと思われるもの。
「芸術は、爆発だ」
他にもあったが忘れてしまった。
たぶん彼女はなまこの眼鏡ほどにもぼくのことを考えてはいなかったのだ。いつも取り澄まして、テーブルやベッドの上でぼくの体にジャムや蜂蜜を塗り付けていた彼女。
ぼくが首を絞めると、彼女の瞳はじっとりと潤んだ。「忘れないで。錦のなまこが虹を食べるのよ」それが彼女の最後の言葉だった。
ぼくはすぐに医者を呼んだ。医者は、目を開けたまま床に横たわってへそとパンツが丸見えの彼女の上にかがむと、小さな懐中電灯で彼女の瞳を照らした。
「死んでますね」
医者はポケットから線香を一本取り出すと「火を貸してください」といった。ぼくは台所を指差し、「ガスコンロでよければ」と答えた。医者はガスコンロで線香に火を付けると彼女の手に持たせてやった。「いい香りがしますね。ちょっと失礼」医者はもう一度彼女の上にかがむとちょっとだけへそを舐めた。ぼくと医者とは彼女のへそを舐め合う運命だったのかもしれない。
ぼくは念のため「死因は何ですか」ときいた。医者は「寿命です」と答えた。
「でも彼女ができてからまだ三十年も経たないのですが、そんなに早くだめになるものなんですか？」とぼくはきいた。「個体差というものがあるんです」と医者は答えた。「首を絞めたみたいですね」と医者が彼女の首のあたりを撫でまわしながら聞いた。「ええそうです」とぼくは答えた。「殺せなくて心残りですか？」と医者がきいた。「いいえそんなでもありません」とぼくは答えた。医者は彼女の身体をひととおり撫でまわした後「帰ります。死亡診断書が欲しいときはいつでもおっしゃってください」といって帰っていった。
いつのまにか、彼女の目からひとすじ涙がこぼれていた。
ぼくは彼女にキスをして「おやすみ」と声を掛け、一人でベッドに入った。ほかになすべきことがみつからなかったのだ。