風鈴

古本屋で美華の書いた本を見つけた。それは美華が最後に書いた本で──もう、三年も前のことだ──いちばんよく知られた本でもあった。義兄はその本を手に取るといかにも気がなさそうにページを繰った。そして皮肉らしい笑みを浮かべると僕に差し出した。

「君の姉さんには結構な読者がいて、たいへん結構なことだ」

五百ページを越える大著なので、手に取るとずっしりと思い。カバーはなく、厚紙の表紙も歪んでいた。雨に濡れたとか、そういう感じだ。ページのところどころには鉛筆で「？」とか「！」などの書き込みがあった。

価格は定価の半分に設定されていた。

古本屋を出て、僕たちは家の方に向かって歩きはじめた。義兄は僕よりも首ひとつぶん背が高い。だから、話しかけようとすると僕は義兄を見上げなければならなかったし、義兄は僕を見下ろさなければならなかった。

そのためかどうか、僕たちは家に着くまでに「なんだか変な空模様ですね」「ああ、そうだね」という言葉を交わしただけだった。

チャイムをならすと美華が玄関に出てきた。義兄は「元気かな？」と言った。美華は「まあね」と言った。すると義兄は「いや、君じゃなくて、君だ」と美華のまだあまり目立たない腹部を指差した。美華は「まあね」と言った。義兄はその場にしゃがみこむと美華の腹に耳を当てた。そして少ししてから、「元気そうだね」と言った。

夕食のとき、義兄は父と政治の話とか、景気の話とか、いま取り組んでいる研究の話とかをした。僕と母はそれを聞きながら相槌を打ったり、ときどき口を挟んだりした。美華はほとんど会話には加わらなかった。そればかりか、ろくに食べないうちに「気分がよくない」と言って自分の部屋に上がっていってしまった。でもそれは決して珍しいことではなかったので、というよりも、ほとんどいつもそうだったので、誰も気にする様子はなかった。

夕食後、義兄は美華の部屋に上がっていった。残された僕と父と母は居間でテレビを見た。美華がこの家を出て行ってからというもの、その時間に家にいれば僕であれ父であれ母であれ、そうやって時間を潰していた。悪阻がひどいと家に戻ってきてからも、美華は夕食後の時間のほとんどを自分の部屋でひとりで過ごしていたので、いてもいなくても同じことだった。

１時間くらいしてから、義兄と美華が二階から降りてきた。僕は散歩がてら義兄を駅まで送って行った。

夕方にくらべて風が強くなっていた。義兄は長身で痩せぎすの身体を屈めるように歩いていた。僕は、義兄が吹き飛ばされてしまいそうな気がしていた。

夜中、どこからともなく聞こえてくる季節はずれの風鈴の音で目が覚めた。一度その音に気付くと、気になって仕方がなかった。布団をかぶっても、耳を塞いでも、その音は布団や指の隙間から忍び込んでくるのだった。

僕は眠るのをあきらめてベッドにうつぶせになって読みかけの本を手に取った。しかし、風鈴の音が気になって、同じ行を何度も行ったり来たりしているうちにいらいらしてきて、本を床に放り出した。

もう一度眠ろうとしたのだけど、風鈴の音がどうしても耳につくのだった。眠るのも本を読むのもあきらめて、ビールでも飲んでヘッドホンで音楽でも聴くしかなさそうだった。台所に行き、冷蔵庫の中を物色するとビールがひと缶だけ残っていた。それを持って美華の部屋の前を通ると、美華が部屋の中から僕を呼んだ。ドアを開けると、部屋の中は常夜燈がついているだけで、薄暗かった。

美華はカーディガンを羽織ってベッドの上に座っていた。

「どうしたの？」と僕は聞いた。

「風鈴の音が耳について、目が覚めちゃって」

「ああ、それは僕と同じだ。いったい、どこの家の風鈴なんだろう」

「さあ。それに、この近所のことについては私よりもあなたの方が詳しいはずだけど」

「でも、どこの家に季節はずれの風鈴が掛かっているか、なんてことまではわからないよ」

「それはそうね。でね、なんだか熱もあるみたいなの」

「体温計は？」

「あそこにある。でもそれより、昔してくれたみたいにして」

それは、僕たちのどちらかが熱を出すと母親がしてくれていたことだった。母親は自分の額を僕や美華の額にくっつけて、「あら、熱があるわね」というのだった。僕も美華もそれをまねして、どちらかが熱を出すと、「あら、熱があるわね」といって相手の額に自分の額をくっつけたのだった。最初のうち、母親はそれを笑って見ていたが（幼いきょうだいが額をくっつけ合っているのは微笑ましい光景だったからだろうか）、いつの頃からか笑わなくなり、しまいには「やめなさい」と言うに至ったのだった。で、僕たちは母親のいないところでそれをするようになった。

最初のうちはただ面白がって、それからキスをしたりなんてしていたのだけど、いつの間にか僕たちはそうすることに別の種類の楽しみを見いだしたのだった。母親はそれに気付いたのかもしれなかった。

僕たちは、母親のいないところで、互いの額をくっつけて、それからキスをした。

でも、それも美華が大学に入るまでのことだった。それ以後、美華はあまり家にいなかったから。

僕はベッドの上によじ登ると美華の額に自分の額をくっつけた。しばらくぶりに至近距離で見る美華の顔は変な感じだった。

「うん、確かに熱があるね」

僕はクスクス笑った。美華もクスクス笑った。それから十数年ぶりにキスをした。

僕たちは壁に寄り掛かって向い側の壁に貼ってあるエッシャーの版画のポスターを眺めていた。それは、白い鳥の群れと黒い鳥の群れが中央でクロスして、左側が昼、右側が夜、という構図のものだった。

「さっきあの人に打たれた」

美華はポスターの方を見ながら言った。僕は思わず美華のおなかのあたりを見た。

「ううん、大丈夫。打たれたのは顔だから。あの人は我を忘れてそんなことをするような人じゃないから」

「どうして打たれたの？」と僕は聞いたが、美華は「さあね」と答えただけだった。

僕は今度は美華の額に掌で触って熱を確かめて、「もう、横になった方がいいよ」と言った。美華は僕の手を振り払うと、「もう一度、さっきみたいにしてくれなくちゃ、横にならない」と言った。僕たちはふたたび額をくっつけ合った。

「ずっとこうしてられたらどんなにいいでしょうね」

美華がそう言った。僕もそう思った。そして美華のことを抱きしめた。美華も、僕の背中に両腕をまわした。

「･･････きょうだいで結婚できたらよかったのに」

子供の頃から、ずっとそう思っていた。でも、それを言葉にするのは初めてのことだった。僕は、誰よりも美華のことが好きだった。他の女の子と付き合っていたときでも。美華は、僕の肩に頭を持たせかけた。懐かしい匂いがした。

「僕が、誰よりも美華のことをよく理解しているし、誰よりも美華のことを愛してる」

「うん、分かってるよ。ずっと昔から、知ってたよ」

美華のからだは熱を帯びていた。

そしてずいぶん長いあいだ、僕たちは抱きしめ合っていた。

「･･････このままベッドに倒れ込んでヤっちゃったらどうなるんだろうね」

美華が突然そんなことを言ったので、僕は驚いて身を引き離そうとした。でも美華はますます僕をきつく抱きしめた。そしてもう一度同じ言葉をくり返した。

「このままベッドに倒れ込んでヤっちゃったらどうなるんだろうね」

美華は腕の力をゆるめなかった。

「そんなことにはならないよ」

「でも、私と結婚できたらって言ったでしょ？」

美華は僕の肩の上にあごをのせて向こうを向いていた。だから顔を見ることはできなかった。

「もし仮に美華と結婚しても、そういうことにはならないよ。僕は美華のことが好きだけど、そういうことを考えたことは一度もないよ」

「でも、何度もキスをしたじゃない」

「それは、子供の頃のことだよ」

「さっきのを別にすれば、いちばん最後のキスは１９××年３月２６日。私が高校を卒業した年で、キミが中二の年だったね」

「そうだったっけ？」

「そうだったんだよ。私の記憶に間違いはないよ。さて質問です。高校生と中学生のキスって、子供のキス？」

僕はその質問に答えることができなかった。

「ね、私達は子供の頃からずっと愛し合ってきたんだよ」

美華はまわした腕に力をこめた。

「でも、あのキスは子供の頃からの習慣だから。とにかく、美華と結婚したとしても、同じベッドで眠ったとしても、それ以上のことにはならないよ」

「それはどうして？」

「だって、僕たちはきょうだいだよ」

「どうしてきょうだいはベッドの中で愛し合っちゃいけないわけ？」

「だって、そういう気持ちにならないもの」

「まあ、そういうことにしておいてあげるわ」

美華は僕の身体の変化に気付いていた。僕は顔が火照るのを感じた。美華は自分の体重を僕の身体に預けた。

「でもとにかく、あなたの意志と肉体とは必ずしも一致していないってことには同意するわね？」

僕は答えることができなかった。もう、離して欲しかった。でも美華は執拗だった。

「お父さんやお母さんのことを気にしているわけ？」

「それもあるかもしれない」

「黙ってりゃ、分かりゃしないわよ。それに、誰が三十を間に挟んだきょうだいの過ちを心配したりするもんですか」

「それに、義兄さんのこともあるじゃないか」

「黙ってりゃ、分かりゃしないわよ。それにあの人は口には出さないけれど、この子の父親があなたじゃないかって疑ってるのよ」

「そんなあ」

僕は自分でも情けないって思えるような声を出した。

「だから、ヤっちゃっても、黙ってさえいれば何も変わらないし、わからない。避妊の必要すらないし」

「でも、きょうだいで、こういうのって、非倫理的だと思う」

「倫理って？」

「だって、きょうだいの場合、近親相姦ってことになるじゃないか」

「だから？」

「それは、社会的に禁止されているってことでしょう？」

「だから？」

「社会的に禁止されていることは、してはいけない」

「ほんとうにそう思ってるの？」

「だって、社会的に禁止されていることをしてしまえば、社会から放逐されるなり、罰せられるなりするわけでしょ？」

「つまり、そういう制裁のようなものを恐れているっていうこと？バレなきゃ大丈夫なわけでしょ？」

「バレなければ大丈夫、という考え方は好きじゃないな」

「私も。ただ私がそういうのは話の流れとしてそういってるわけ。じゃあバレたとして、制裁が恐いわけ？」

「それもあるかもしれない」

「正直でよろしい。で、制裁ってどんなの？」

「だって、たぶん、バレたら、僕たちは永遠に引き離されるよ」

「うん、それは私も嫌だな」

「でも」

「でも、なに？」

「でも、僕は美華としたい、って思ったことはないよ。ほんとうに」

「キスはしたってのに？」

「それでも、そう思ったことはないよ」

「なぜ？」

「きょうだいだからかも知れない」

「きょうだいだとしたくないの？」

「だって、同じ両親から生まれて、子供の頃からずっと一緒にやってきたんだよ」

「だから？」

「そういう相手とは、したくないって思うものなんだと思う」

「私はしてもいいなって思ってる」

「本当？」

「本当よ」

でも、美華は僕にしがみついたまま顔を見せようとはしないのだ。僕はほとんどベッドに押し倒されていた。

「私としたくないって理由は、絶対に見つけることができないよ」

「きょうだいだからっていうのは理由にならないっていうの？」

「だって、私はしてもいいなって思ってるんだよ」

「じゃあ、身近な人だからっていうのは？」

「同じことだよ。循環論だよ。その手の理由は全部循環論なんだ。それからついでに言うと、家族の中で性愛が認められているのは夫婦だけで、あとは認められていないんだ。なぜだと思う？」

「近親交配の危険があるからでしょ？」

「避妊すれば関係ないよ」

「じゃあわからないよ」

「ただ単に禁止されてるからだよ」

「じゃあ、僕の場合も禁止されてるからっていうの？」

「その通り。ようやく気付いたみたいですね」

「でも、禁止も何も、ぼくはただ単にしたくないんだ。理由なんてないんだ」

「それが、禁止なんだよ。自分で気付いてたら禁止じゃないんだ。わたしはそれを倫理と呼ぼう」

「勝手に決めないでくれ」

「でも、そうなんだよ。つまり、きみは私としたくないと思い込んでいるのだけど、その実は私とすることを自らに禁じているだけなのだ。もっと正確に言うなら、私とすることを欲することを禁じている。いや、私を性愛の対象としてみることを禁じているのだ。それを私は倫理と呼びたいと言っているのだ。だからきみは私と結婚したいと言っておきながら、性交の可能性だけはロマンティックな修辞によって否定したのだ。それが、きみの倫理なのだ」

いまや僕たちは完全にベッドに倒れ込んでいた。

「私が思うに」

美華はそこで言葉を切った。それから、途切れ途切れに続けた。

「きみが肉体的に性交可能であることは、私にはよく分かっている。そして、たぶん私も似たような状況にある。

「いまここできみと私が性交すれば、私は何ともないが、きみは自らの倫理に反する行為をすることになるのだろうか？

「もしそれが倫理に反することなら、それこそ不倫、というのに相応しいだろう。世の中で使われている不倫という言葉は、わたしの言う意味での倫理とはほとんど関係がないのだ。

「しかし、もしそれがきみの倫理であるならきみは私と性交できないだろうし、もし私と性交できるなら、きみの倫理は先に私が指摘したのとは別の形を取っているのに違いない。

「つまり、私の言う意味での不倫は不可能、というよりも有り得ないのだ」

美華はそこで話すのをやめた。僕は反論した。

「でも、したい、って気持ちと『好き』という気持ちは必ずしも一致しないんじゃないかな。だって、僕は男とはしたいって思わないし、女の人でも、すごく年を取った人とも、やっぱりしたいとは思わないよ」

「きみはいま私を性愛の対象として見ている、ということを暗に仄めかした。なぜなら私は男でもないし、すごく年を取っているわけでもないからだ。でも、きみが少女しか愛さない、というのなら話は別だが」

「あんまり揚げ足を取らないでよ。美華の理屈は、どこかおかしいよ」

「それはそうかもしれない。なにしろ私はきみをかき口説くことしか考えていないのだ」

少し間を置いてから、美華は言った。

「さあ、私と性交しないか？」

「それはできないよ、無理だよ」

僕はそう言った。それ以外に言うべきことはなかった。美華は黙ってしまった。

暫くしてから、美華はまわしていた腕を離して、起き上がった。

「冗談だよ、全部」

そう言って笑った。

「やっぱりね。分かってたよ」

僕たちは顔を見合わせて笑った。でも、僕も美華も冗談なんかではないということはよくわかっていた。それは、気まずさを紛らわす一種の儀式だった。僕たちは、ずっとそうやってきょうだいの間で発生した気まずさを切り抜けてきたのだ。

「熱が出てきたし、もう寝るわ。なんか、風も弱まってきたいみたいだし。風鈴の音が聞こえなくなってる」

「ほんとうだ」

「さあ、そろそろ部屋に戻ってちょうだい。これから、きみのことを考えながら自慰行為に耽るんだから」

「じゃあ、僕も部屋に戻って美華のことを考えながらマスターベーションしようっと」

僕はすっかり温くなった缶ビールを持って部屋に戻った。たぶん、美華はほんとうに僕のことを考えながら自慰行為に耽るのだろう。僕はさっき美華に指摘されてからずっと勃起したままだった。生ぬるいビールを飲んでも勃起はおさまらなかった。僕は美華のことを考えないようにしながらベッドの中でマスターベーションをした。