気がついたら死んでいた。あ、でもそういういい方ってなんか変ね。まあいいか。とにかく、気がついたら死んでいたのよ。これがユーレイなのねと妙に納得してしまった自分が恐いぜ。
どーして自分がユーレイだってわかるかって？ じゃあ、どうして自分が生きてるってわかるの？ ほっぺたをつねって痛ければ生きてるなんて、そんなのは駄目だよ。だって、あたしだって痛いもん。いててっ。でも、ユーレイ。正真正銘、ユーレイ。
でも、素っ裸ってのはやめて欲しいわね。それに、ユーレイにはなんだか薄暗い場所が似合うって思うんだけど、ここは何？ すっきり晴れてて、乾いた風が吹いてる。カリフォルニアか？
すると向こうから誰か来る！ よく見えないけど、ひたひたと気配が近づいてくる。あわててボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」みたいに両手で胸とあそこを隠したところへやってきたのは浴衣を着て日傘を差したおばあさん。あたしはヴィーナスを気取ったまま声を掛けた。
「いい天気ですね」
彼女は立ち止まるとにっこりと笑った。
「ほんとうに、いいお天気ですね。でもあなた、そんな格好では、なんですよ」
「ええ、そうなんですけど、どういうわけか気がついたらこういう格好だったんです」
すると彼女は手に持っていた小さな巾着からずるずると服を引きずり出した。
「これ、あなたにどうかしらねえ」
それは黄色い花柄模様のワンピース。遠慮なく着てみる。
「よく似合うわ」
「ありがとうございます」
「私にはあなたと同じくらいの娘がいたのですけどね、二年ほど前にここを通って向こうへ行ってしまったのよ。それは娘に作ってやった服なんだけど、一度も袖を通していないの」
彼女は寂しそうに笑った。
「あの、それじゃあこれはいただけません」
「いえ、いいのよ。それに、私同じものをいくらでも持っているのよ」
彼女は巾着からちょっとだけ黄色い生地を覗かせた。あたしはそれを見て、遠慮なく頂戴することにした。
「これから向こうへ行ってあの子のことを思いっきり叱ってやるつもり」
彼女はちょっと嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私はこれで。先を急ぎますので」
そういって彼女は立ち去った。
それからあたしは大事なことを思い出した。いや、知らなかったことだから思い出すはずはないんだけど、まるで思い出すみたいに頭に浮かんできた。それは、言葉にできることならなんでもできるってこと。それがたぶんユーレイってことなんだと思う。
いちばん最初にしたことはパンツとブラを出現させたこと。とほほ。
あたしは小さな川沿いの草ぼうぼうの細い道に立っていた。太陽はやや傾いて、たぶん午後２時頃。川向こうの林からは蝉の声がする。というか、蝉時雨。うるさいくらい。ツクツクボウシも鳴いている。いちばん好きな季節、晩夏。青い空。白い雲。
炎天下、ぼんやりと道の真ん中に立ち尽くしていると、向こうから日傘を差したおばあさんがやってくる。彼女はそばまで来ると立ち止まってレースのハンカチで汗を拭いた。
「暑いですね」
「そうですね」
彼女はとても美しい人だった。もう、今となっては叶わないけど、こんなおばあさんになりたかった。彼女は滴る汗をレースのハンカチに吸い込ませるように汗を拭く。
「お顔の色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか？」
あたしは大丈夫ですと答えた。それから、散歩の途中なのだとあわてて付け足した。彼女は、そうですか。でも、暑いですからどうぞお気をつけてと言った。そして会釈をして去っていった。
あたしは道端のヒマワリを見ていた。あたしよりもずっと背の高い、ひまわり。でも、そろそろヒマワリの季節も終わりだ。
去年の今頃、アキくんはあたしをヒマワリの横に立たせて写真を撮った。
「きららってヒマワリみたいだね」
アキくんはよくそういっていた。そういえばあたしはアキくんよりも背が高い。
あたしにはこのワンピースをくれたおばあさんのように、向こうに立ち去るべきだということがわかっていた。でも、死ぬ前に、じゃなかった、向こうへ行く前に、どうしてもしておきたいことがあった。
史隆に会う手筈を整える。前の晩に遡ってありもしない電話をでっち上げ、それから史隆の部屋の電話線を通じなくして、玄関のチャイムも鳴らなくして、それからドアを叩こうが蹴ろうが中には聞こえないようにした。それから光や音やそのほかいっさいのものが部屋の家と外とで出入りしないようにした。それから、史隆の帰宅途中、彼の顔を知っている人と顔を合わせなようにした。これでよし。それから、外からかかってきた電話には留守電が応対するようにして、しかも室内の電話は鳴らないようにした。まあ、不都合があったらいつでも変えられるし、これでいいでしょう。
さて、史隆とどんなふうに会おうか。まずはほたるになりすます。これで行こう。あたしはとりあえず史隆の部屋に行った。ああ懐かしい。でも一週間前に来たんだっけ。それなのに、この懐かしさはなんなんだろう。懐かしくて懐かしくて、なみだがぼろぼろこぼれる。あんまり泣けるので、床に座り込んでひとしきり泣いた。
それから、ピアノの前に座り蓋を開ける。ぽろん。久しぶりの感触。今でも弾けるかな。トロイメライ。やっぱり下手くそだなあ。ごめんね、ほたるちゃん。
にしても、たった一週間のあいだに汚くなったなあ。リビングには新聞や論文のコピーが散らばっているし、テーブルの上には飲みかけのコーヒー。それから広げた広告紙の上には焦げ焦げのトースト、歯形付き。皿くらい使えよ。蛋白質は摂ってるのか？ キッチンで生ゴミを漁る。う、臭い！ 夏なんだから、ゴミはまめに出せよ！ 中身は……コンビニ弁当の残り、食べかけのトースト。つまりそれしか食べていないってことか。もっときちんと食べなきゃいかんぞ！ きちんとした食生活は健康の基本だぞ。ったく。
トイレに行けばトイレットペーパーの芯が隅にいくつも転がっている。こないだ来たとき、捨てとけっていったじゃないか。風呂場に行けば排水溝の透かしに髪の毛が絡まっている。寝室に行けばシーツには汗染みができているし、つまり洗濯も掃除もなんにもしてないじゃないの！
ヒスイちゃんの部屋には入らなかった。それはしてはいけないことだと思うから。
時間を巻き戻すと、リビングといわずトイレといわず、家じゅうを片付けて掃除した。雑誌や本は本棚に……もう入んないじゃないの！ 仕方がないから机の上に。論文のコピーも机の上に。辞書や筆記用具も机の上に。あっという間に机の上に山ができる。それから食べかけのトーストとか、冷蔵庫の中できれいにモールドされた真っ青な夏蜜柑なんかを東京都指定４５リットルのごみ袋に放り込み、さらにあらゆる可燃ゴミを放り込み（不燃ゴミはきちんと選り分けた。ダイオキシン汚染が心配だから）、それから家じゅうに掃除機をかけ、たまっていた洗濯物を片付け、ついでにシーツなんかも洗濯して、それからキッチンの流し、トイレ、洗面所、風呂場などの水周りを掃除したら、ユーレイにもあるまじき疲労。とにかく、時間を早送りして洗濯物を乾かしてアイロンをかけてから箪笥の引き出しにしまった。どういうわけかほたるの下着が史隆の箪笥の中にあった。まさか変な趣味に走ってるんじゃなかろうな。
にしても、あたしと衣類のしまい方がそっくりじゃん。まだ、ほたるちゃんの影響が残ってるんだね。
ちょっとお茶を飲んで一休みしてから、ほたるの衣類を探し出す。さっき史隆の衣類をしまったとき、箪笥の中にたくさんあったのを見つけたのだ。
で、あちこち引き出しを開けてみると、どうやらほたるの衣類はまったくそのまま残っていて、さらに、押し入れの中には黒いポリ袋に洗濯してない衣類まであって、いやなにおいがしていた。ヒスイちゃん、このこと知ってんのかな。まあいいや。
化粧品も、押し入れの段ボールの中にそっくり残っていた。なんだ、捨てたんじゃないのか。なくなってたから捨てたのかと思ってた。
黒いポリ袋の方は見なかったことにして、そのかわり化粧品をいくつか取り出す。あ、でも化粧品なんていらないのか。テクマクマヤコンだかマハリクマハリタヤンバラヤとでもとなえれば充分なのだった。でも化粧はそのプロセスに意味があるとほたるちゃんは言ってたっけ。あたしにはよくわからないんだけど。
寝室へ行き、時間をかけて化粧をする。鏡のなかのあたしはほたるみたいだ。やっぱりやめた。どうせあたしとほたるはよく似てるんだし。
洗面所に行き、丹念に化粧を洗い落す。だいたい、ほたるは家の中ではすっぴんだったじゃない。バカみたい。
あたしはワードローブから夏物のワンピースを探した。青くて花模様のやつ。あれ、本当はあたしが着たかったのよ。あったあった。クリーニングしてあるわね。それから、下着を探す。サイズはまったく同じだから、問題はない。ちょっと嫌だったけど、新品じゃないのを身につける。鏡のなかのあたしはほたるちゃんみたい。でも違う。やっぱりあたしだ。ワンピースを着たままベッドに横になる。にしても、どっちのベッドも使っているみたいだ。いったい、史隆は何をしているのだ。だれか連れ込んでるのか？
急にお風呂に入りたくなって、浴槽にお湯をいっぱいに張る。それから、ほたるちゃんが愛用していたバラの香りの石鹸を探し出す。まだいっぱいあるじゃん。誰も使わないのかも。ヒスイちゃんが使えばいいのに。あたしは脱衣場の洗濯籠に着ていたものを放り込み、湯船に体を沈めた。ざーっとお湯がこぼれる。すると涙もたくさん出てきて、湯船の中でひとしきり泣いた。我ながらよく泣くぜ。でも、たくさん泣いたらすこし気分がすっとした。もう泣くのはやめだ。バラの香りの石鹸を湯船に入れて、いっぱいに泡立てる。
あたしは浴室で史隆と会うことにする。ちょっとエロティックで、いい。史隆をコントロールして帰宅させる。玄関のドアの開く音がする。ちょっとどきどきしながら史隆が浴室に入ってくるのを待つ。
でも、いつまでたっても史隆はやって来ない。留守に誰かが上がり込んでいるというのに、やつはどういう神経をしてるんだ？あたしはわざと水音をさせた。
しばらくして、浴室のガラス戸の向こうに人影が見えた。どうやらすごくびびってるみたいだ。待てど暮らせど、人影は動かない。情けないやつ。しょうがないので優しい声を掛けてあげる。
「フ・ミ・タ・カ」
……人影は完全に硬直した。
「ほたるちゃんですよん。どう、一緒にお風呂に入らない？」
するとようやくガラス戸が開いた。がらがら。史隆はすっかり青ざめていた。
「……おい、あんまり悪趣味なことをしないでくれないか？ まじで心臓が止まりそうになったじゃないか……」
「なあんだ、あたしだってわかっちゃったの。残念」
史隆は左手で心臓のあるあたりを押さえている。
「だいたい、人の留守に上がり込んで、風呂に入ってるなんて、どういうつもりなんだよ。昭彦に知れたらどうするんだよ」
「ああら、あたしは平気よ。なんなら、一緒にお風呂に入ってもいいのよ。いかが？」
あとがないからなんとでも言える。うーん、失うものが何もないって強いな。
「……いいから、早く風呂から上がれ」
史隆はガラス戸を閉めると出ていってしまった。意気地なし。あたしはそれから小一時間、最後の入浴を楽しんだ。途中一度だけドアが開いて、すぐに閉まった。お風呂から上がると、洗濯籠の中にバスタオルが入っていた。サンキュー。あたしは水気を拭き取ると、バスタオルを体に巻き付け、そのままリビングに行った。うーん、こういうのって一度やってみたかったんだ。
史隆はビールを飲んでいた。でもあたしを見たら急に咽た。ざまみろ。でも史隆は「髪の毛から水が垂れてる」と言っただけだった。
「水も滴るいい女でしょ？」
あたしはそういってみたけど、史隆はそれには答えなかった。
「なんの用だ？今日はヒスイが来ることになってるんだから、あんまり誤解を招くようなことはしないで欲しいな」
「誤解を招くって？」
「いま君がしているようなこと」
「どうしてあたしがあなたの家でお風呂に入ることが誤解を招くことなわけ？」
「だってそうじゃないか」
「あらそう。じゃあ聞くけど、どうしてほたるちゃんが死んでからというもの、たびたびあたしと会おうとするわけ？」
「そんなにたびたびでもないよ。それに、きみがうちに押し掛けてくることの方が多いじゃないか」
「だって、アキくんが行ってやれっていうんだもん」
「それならそれで、何も問題はないじゃないか」
「じゃあ、あたしが家じゅう掃除したあとで、すっかり汗かいちゃったからお風呂に入ったって別にいいじゃない」
「でも、あの石鹸を使う必要はないと思うけど」
「だって、石鹸切れてたんだもん」
「新しい石鹸は洗濯機の横の棚に入ってたはずだ」
「そんなの知るもんですか！ あたし、あなたの奥さんじゃないのよ！」
「そう、そのとおり」
あたしはその場で史隆を絞め殺してやろうかと思ったけど、思いとどまった。そのかわりに冷蔵庫からビールを出してきて飲んだ。ほんとはもう冷蔵庫にビールは入ってなかったんだけど、マハリクマハリタで出現させた。
足を組んで、ソファにふんぞり返ってビールを飲む。ビールは味がしない。ユーレイだから、仕方がない。で、ときどき足を組み変える。チラリズム。ほーら、色っぽいでしょ。
でも、ほんとに色っぽいかなあ。心配だ。もう、ほんとに若くはないし。そう、もう、若くはない。史隆のまわりには若い子だって少しはいるだろうし。でも、若い子って、色っぽくない。あたしはちょっとだけそう思う。でも、それはあたしの思うことで、史隆がどう思ってるかなんて、わからない。
「服、着てくるね」と言ってリビングを出る。
そういえば、あたしのからだ、どうなっちゃったのかなあ。アキくんがかわいそうだなあ。死ぬまでアキくんに迷惑のかけどおし。
あたしはほたるちゃんの下着を付け、ほたるちゃんのワンピースを着て、再び史隆の前に現れた。史隆は露骨に嫌な顔をした。
「あたしがほたるちゃんの格好するのがそんなに嫌？」
「どうしてそういうまねをするわけ？」
「さあね。ねえそれよりもお腹空いてない？」
「まあね」
「じゃあちょっと待っててね」
あたしはキッチンに立つと冷蔵庫を開け、必要なものをすべて揃えた。そういうと冷蔵庫に食べ物がたくさん入ってたみたいだけど、さっき腐ったものとかカビの生えたものを捨てたらほとんどすっからかんになってしまっていた。だからテクマクマヤコンで揃えたのだ。
もちろんテクマクマヤコンで料理を揃えることもできるけど、そんなのは料理とはいわない。料理には怨念を込めなくてはならない。だから自分で作る。
合い挽き肉と玉ねぎの粗みじん切りとピーマンと３ミリ角のニンジンを軽く炒め、皿に取り出す。次に残りご飯を軽くほぐしながら炒め、皿に取る。それからきれいにしたテフロン加工のフライパンで黄身だけの溶き卵を流し、半分くらい火が通ったところで皿にとっておいた中身を薄焼き卵焼きの上に載せ、卵焼きで包みこむ。サラダ菜とトマトを添えて出来上がり。あ、それから山吹色も鮮やかな薄焼き卵焼きの真ん中に×印の切れ目を入れるのをお忘れなく。
「さあどうぞ！」
史隆はオムライスを前にして呆然としていた。
「どうしたの？ 早く食べなよ。お腹空いてるんでしょ？」
「どういうつもり？」
「べつに」
あたしは澄ましていた。
「君のは？」
「あたしはお腹空いてないから、いい」
「そう」
史隆は読みかけの本を閉じ、黙ってオムライスを食べた。そして食べ終わるとぼそりと言った。
「今度ヒスイにも作ってやってくれると、嬉しい」
あたしはまたもや涙腺がゆるゆるにゆるみそうになったけど、何とか耐えた。ごめんね、ヒスイちゃん。あなたにも作ってあげればよかったね。
「オムライスにはいろいろ思い出があってね。たぶんヒスイもそうじゃないかな」
史隆はしんみりモードに入っていた。
「でも、ヒスイ、遅いなあ。だいたい、先に来てると思ったのに」
「あ、ごめん、言うの忘れてた。ヒスイちゃんから電話あって、急用で来れないって」
「え、ほんと？ それならそうと、もっと早く言ってよ。それなら、こんなに早く帰って来なくってもよかったのに」
「まあいいじゃない。それにたまにはあたしと二人っきりで過ごすのも悪くないでしょ？」
「昭彦の夕食は？」
「ガキじゃないんだから、一人で作って食べるでしょ。それに、今日は飲んで遅くなるって」
史隆は黙っていた。
「もっと何か作ってあげるね」
あたしは再びキッチンに立つと、最近覚えて、まだアキくんにもろくに作ってあげたことのないテックスメックス料理を作った。テーブルの上はたちまち料理でいっぱいになった。それからチリ産のワインとワイングラスを出してきて、史隆と自分のグラスに注いだ。
「乾杯！」
ワインは味がしなかった。予想どおりだ。たぶん、酔っ払うこともないのだろう。でも、言葉で表現できることならなんでもできるのだから、同じことだけど。
あたしたちはほたるの思い出とか、アキくんのこととか、ヒスイちゃんのことなんかをしゃべった。でもパパとママのことは、避けた。話がそっちへいきそうになると、必至で軌道修正した。
そして思い付いたことを実行に移す。まずは一本のビデオテープを準備。
「さあ手品です」
自分の前に敷いてあったランチョンマットをテーブルの上で目に見えない何かを包み込むようにして、それからむにゃむにゃと口の中で唱え（学生の頃にほたるちゃんから教えてもらったあるフランス語の歌の歌詞の一部を早口で言った）、おもむろに包みを開くと、一本のビデオテープが出現した。史隆は驚いたみたい。
「いつ手品なんて覚えたの？」
「うふふふ。さ、このテープを一緒に見ましょ」
テープをビデオデッキに押し込み、並んで座る。ビデオが再生され始める。
最初の場面は、そう、給食のシーン。それで行きましょう。
史隆はあたしの向かいで食パンにマーガリンを塗りたくっている。そう、あの先割れスプーンで。先割れスプーンにはクリームシチューのホワイトクリームがついたままだ。あたしはそういうのがすごく嫌で、先割れスプーンをお盆の上に置かなきゃならないときでも必ずよく舐めて、おかずが付いていないのを確認してからお盆の上に置く。でもほんとはスプーンを舐めてきれいにするのもいやだ。別に行儀が悪いからではない。前にあたしに配られたスプーンに干からびたほうれん草みたいのがくっついていたことがあって、それ以来、あたしは先割れスプーンのことを信じていない。もちろんそのときはきれいに洗ってから給食を食べた。でもそのときは、そのスプーンをどうしても口に入れることができなかった。だからおかずはまるまる残してしまったし、カトウ先生はちょっとだけ悲しそうな顔をした。カトウ先生はあたしが給食を残しても、絶対に怒らない。もちろんほかの子が給食を残しても、何もいわない。でも、牛乳を残すと、「牛乳は体にいいから明日からは全部飲もうね」というのだった。あたしはそういうとき、黙って首を縦に振った。でもあたしたちのクラスには牛乳が飲めない子がいて、そいつの名前を史隆といった。カトウ先生がいつものように「牛乳は体にいいから明日からは全部飲もうね」という毎日決まって繰り返される言葉を口にしたとき、こう反論した。「でも先生、ピーマンは毎日給食に出るわけじゃないけど、牛乳は毎日必ず給食に出ます。これは不公平なんじゃないでしょうか」。先生はそれ以後、例の決まり文句を言わなくなった。
クリームシチューはゲロに似ている。給食の時間には決して誰も言わないけど、みんなそう思っている。忘れもしない小学二年生の遠足の日の朝、あたしたちは校庭に並んで先生の注意を聞いていた。はぐれないようにとか、ほかの人に迷惑のかかることをしないようにとか。そのときあたしのうしろに立っていたるみちゃんが、いきなり吐いた。あたしはびっくりしてうしろを振り返った。校庭の砂の上にぶちまけられたゲロは、クリームシチューそっくりだった。あとで聞いた話だと、その朝るみちゃんが食べたのはマカロニグラタンだったそうだ。あたしはいっぺんにクリームシチューとマカロニグラタンが嫌いになった。
史隆はあたしの向かいで食パンにマーガリンを塗りたくっている。そう、あの先割れスプーンで。先割れスプーンにはクリームシチューのホワイトクリームがついたままだ。あたしは気分が悪くなりそうだったので下を向いた。すると昨日の酢豚がブルーのテーブルクロスにこびりついている。これはきのうあたしがこぼしたものだ。だから責任はあたしにある。でもすごく嫌だ。ふたたび史隆を見る。史隆は食パンを二つに折ると真ん中にかぶりついた。それから今度は食パンを開くと、その穴からあたしを見た。あたしは食べるのを止めた。もう、食べられない。
でも、史隆はそれでもしごく行儀のいい方だった。唾を飛ばしながら大声でしゃべったり、クリームシチューの入ったお椀を片手に持ってスプーンで口の中に流し込んだり、汚らしい話をしたり、暴れだしたり、口の中に物をいっぱいに入れたまましゃべったり、それを吐き出したり、また口の中に入れたり。あんびりーばぼー。あたしはひとりでそう呟いていた。史隆はあたしがそういうたびにふざけていようが食べていようがしゃべっていようが、すべて中断して、俯いてしまう。そういう史隆を見ているとすごく腹が立ってきて、あたしはしばらく口も聞きたくなくなってしまう。
そのときもあたしはあんびりーばぼー、と呟いた。史隆はたちどころに意気消沈して、見る影もない。
「これ、変だよ」
史隆はそういった。
「こんなの、覚えてないよ。給食の様子を撮影したなんてこと、あったっけ。あの頃はそんなこと滅多になかったから、絶対に覚えているはずだよ」
「やだなあ、忘れたの？ あたしはちゃんと覚えてるわよ」
史隆は画面を見つめたまま、確かにビデオの画質じゃないけど、とかなんとかぶつぶつつぶやいていた。あたしは体を史隆にもたせかけ、「懐かしいでしょ」と言った。史隆は画面から目を逸らさないでいった。
「そういう言い方もできなくはないかもしれない。でも、あんまり気持ちのいいものではない」
というわけで、次なるあたしの作戦は決まり。もっと気持ちのよくないものを！
あたしは「はないちもんめ」という遊びに加わっている。どういうわけか、楽しそうな顔をしている。きっと、遊びってやつはそういうものなんだろう。
向こうの一団も、「はないちもんめ」をして遊んでいる。ちょうどほたるが「ほたるちゃんが欲しい！」と言われれてるところだった。なんだ、人気者なんじゃないのとか思ってたらあたしも「きららちゃんがほしい」なんて言われている。なんだ、あたしも人気者なんじゃないの。
でもあたしやほたるがみんなに誘われて一緒に遊んだのは、「はないちもんめ」という残酷な遊びがはやった時期だけ。あとは、あたしもほたるもクラスの女の子のつまはじき。くさいとか、バイキンとか、ときどき言われたけど、どういうわけかそれも長続きしなかった。ただ、クラスの片隅に存在しているだけ。
「はないちもんめ」がはやると、どういうわけか史隆は遊び相手を失った。ときどき気になって校庭を見回すと、つまらなそうに桜の木に寄り掛かっていたりする。ああいうのが史隆の悪い癖だとあたしは思っていたけど、ほたるはなんだかすごく気にしていた。
で、あるときほたるが「はないちもんめ」に加わるのをやめて史隆と一緒に校庭の隅で過ごすようになってから、「はないちもんめ」はだんだんに人を集めなくなって、いつのまにか完全にすたれてしまったのだ。
でもまだ「はないちもんめ」が全盛を極めていた頃の校庭。キンコンカンコンとチャイムが鳴ると、みんないっせいに遊ぶのをやめて玄関に向かった。史隆は校庭のいちばん奥まったところにある、岩石園にいた。なにが岩石園なのか、あたしにはよくわからなかったけど、パパがなんかの用事で学校に行ったとき、帰ってきてから「ぼくだったらもっと違った岩石をあそこに置くね」なんていってたっけ。史隆はイライラするほどゆっくりと校舎に向かっていた。あたしはすごくムカついた。ほかの子たちはもうほとんど靴を履き変えて教室に向かっていた。あたしはひとりで史隆を待っていた。でも史隆は走ろうともせず、ゆっくり、ゆっくり、歩いてこちらへ向かっている。
あたしは史隆の靴箱から真新しい上履きを右の片方だけ取りだすとスカートの中に隠して、教室の外に掛けてあったあたしの体育着入れに突っ込んだ。教室にはもうカトウ先生が来ていた。あたしは遅れてすみません、といって自分の席に付いた。遅れて来たってなんにも言わずに座るのが普通だったから、あたしはいい子にみえたかもしれない。
史隆はなかなか戻って来なかった。もうみんな国語のノートや教科書を机の上に揃えたというのに、まだ戻って来ない。業を煮やしたのか、カトウ先生は学級委員のミシマくんとあたしにその辺を見てくるようにといった。背がすらりと高くて運動が得意で頭もいいと言われていたミシマくんのことは、はっきりいって大嫌いだった。ほんとは並んで歩くのも嫌だった。でも仕事だから仕方がない。ミシマくんは遠回しに史隆の悪口を言った。「悪いやつじゃないけどね」。そのとおりだ。あたしは「そうね」と相槌を打った。あたしは史隆がどこにいるか見当が付いていたので、「こっちじゃないの？」とか適当なことを言いながら玄関のところまで来た。するとやはりそこに史隆はいた。外履きを履いて泣きじゃくりながら靴箱の下を除き込んでいるところだった。ツチブタめ、とあたしは思った。史隆はデブじゃなかったけど、そんな感じだった。バカでのろまで。でもミシマくんの軽蔑しきったような顔を見たら、すごく腹が立った。やっぱりこいつは身の毛がよだつほど嫌いだ。
あたしは教室に戻るとカトウ先生に報告した。先生は職員室前に来客用スリッパがあるからそれを使うようにといった。史隆は教室に戻ってもまだ泣いていた。あたしは何度ぶん殴ってやろうと思ったことか！ でも先生は史隆にすごく同情していた。なにしろ降ろしたての上履きを盗まれたのだ。カトウ先生は「もしヤマグチくんの上履きを見つけた人は先生にいいなさい」と、いつになく怖い顔をしていった。あたしはちょっと怖かったけど、もちろんそんなことは言い出さなかった。
史隆は画面を見つめたまま、「きみってやつは……」と呻いた。あたしは席を立つと玄関まで行き、それからマハリクマハリタとやって上履きを出現させた。捏造したんじゃありません。本物です。実家のあたしの使っていた部屋から取り寄せました。
「ちょっとビデオを止めてちょうだい」
あたしは後ろ手にリビングのドアを閉めた。史隆は言われる通りにした。よし。
「それからついでだからテレビも少しのあいだ止めてちょうだい」
史隆は言われる通りにした。よし。
「それから目をつぶって両手を出して」
「なんのまねだ？ きみがそういうときはろくなものが出てきたためしはない」
とかなんとか文句を言いながらも史隆は言われる通りにした。よし。
あたしは上履きを史隆の両手の上にそっと載せた。
「さあ目を開けて」
史隆はぜんぜん驚いてないみたいだった。ちょっとつまんないかも。
「まあきみのことだからね。それに、いまとなってはいい思い出だよ。有り難く頂戴しときます」
「ところでこの片割れはどうしたの？」
「はさみで切り刻んで捨てた」
あたしは少しだけ怖いと思った。
史隆はその上履きを広告紙にくるむと押し入れにしまった。それから洗面所に行き石鹸で念入りに手を洗った。
「どうしていちいちついてくる？」
史隆が鏡越しにあたしを見る。
「ふふふ。お前は監視されている」
あたしは史隆を見返してやる。史隆はやれやれという顔をする。少なくともあたしにはそうみえる。ザマミロ。
「しかし」
史隆は冷蔵庫から出してきたビールのプルトップを開けて言った。にしても冷蔵庫にはそんなにたくさんビールは入ってなかったのに。無頓着なやつ。史隆が帰ってきた時点では冷蔵庫にはビールは二本しかなかった。さて、今飲んでいるのは何本目でしょうか？
「このビデオはおかしいよ。さっきの給食の場面がぼくの思い違いだとしても、さっきのはおかしいよ。あんな場面を撮影するはずがない」
「ふふふ。あたしが隠し撮りしてたのよ」
「そんなことができたわけがない」
「じゃあ、このビデオはなんなのよ。現にここにあるし、あなたも見たでしょう？ それとも作り物だとでもいいますか？」
「いいや。作り物だと考えるよりは隠し撮りだと考える方が本当らしい」
「じゃあ、それでいいじゃないの。次行くわよ次」
「まだあるの？ そろそろ勘弁して欲しいんですけど」
「なんで？」
「隠し撮りだろうと作り物だろうと、昔の自分を見ているのが辛い」
「どうして？」
「まあ、きみはなんともないだろうけど。ほたるだってそう言うだろうよ」
いじいじ男はほっといて、次行こう！
ほたるちゃんがピアノを弾いている。まだあんまりうまくない。もちろん間違ったり止まったりはしないけど、大人になってからのようには弾けてない。
あたしと史隆は大き過ぎるソファに並んで腰掛けている。史隆はかわいそうなほど緊張している。史隆の向こう側にはママがいる。若くて、きれい。あたしはそう思った。化粧なんてろくにしてない。歳だって、今のあたしよりも若い。
ほたるちゃんはどういうわけか子供の頃からライン川に身投げしたドイツ人の作ったピアノ曲をこよなく愛していた。今ちょうど弾き終わったのは「子供の情景」の一曲目。あたしたち聴衆は拍手を惜しまない。惜しんだら、ちょっと寂し過ぎるというのもある。でも史隆は本気で拍手している。ママは「あらお上手ね」的文脈で拍手をしている。あたしはほたるちゃんのピアノが好きだから拍手している。
「じゃあ次はねえ……タカちゃん、何がいい？」
［ええと」もじもじ「あれがいい」ちょっとむかつく。
「わかった。あれね」
ほたるちゃんはにっこり笑う。そうそうそうなんだ！ どうしてほたるちゃんはにっこり笑えるんだろう？ 中身はそんなに違わないと思うんだけど、笑い方だけは決定的に違う。あたしがいくら「にっこり」しても、みんな「なににやけてんの」としか言ってくれない！ この違いはなんなんだ！
ピアノに向き直ったほたるちゃんが弾き始めたのは「トロイメライ」そう、あたしは「子供の情景」の中では「トロイメライ」以外発音できない。クソ恥ずかしいからだ。あ、でもこれは声じゃないからいいか。「知らない国々」
「珍しいお話」「鬼ごっこ」「おねだり」。だーっっ！！！ やっぱだめだ！ ちなみに「トロイメライ」は意味がわからないからなんともないのだ。
晩年は「ビル・エヴァンスのまね！」とかいって背中を気持ち悪いほど丸めてみたり「グールドのまね！」とかいって椅子を横にしてピアノを弾いてみたりしたほたるちゃんだけど、画面の中では背筋をきちんと伸ばしている。指の動きは恐ろしいほどに鮮やかだし、それ以上に聴いている人の心を震わせる……と思っているのはあたしだけみたいだ。史隆は馬鹿みたいにぽかんと口を開けている。ママは体でリズムをとっているつもりみたいだ。というのも、ぜんぜんあってないからだ。まあいいけど。
演奏が終わって、ほたるちゃんが椅子から立ち上がって御辞儀をするまであたしたちはぽかんと口を開けて黙っていた。ほたるちゃんが困った顔をしたので、あたしははっと我に帰って大袈裟な拍手をした。するとようやく史隆とママも拍手をした。あたしよりももっと大袈裟な拍手。ほたるちゃんの笑顔は引きつっている。
それからママは史隆に真っ赤なバラの花束を二つ手渡す。史隆は花束を持って立ち上がると、ピアノの前に立っているほたるちゃんに二つとも手渡してしまう。何を緊張しているのだ。ほたるちゃんはあたしの方を見た。あたしはほたるちゃんの隣に立って咳払いをした。ごほん。史隆はあたしに残った方のバラの花束を差し出す。あたしが花束を受け取るとき、史隆は間抜けにもバラのトゲで手を刺した。ほたるちゃんが「リルケみたい」とすかさず突っ込む。史隆は何のことだかわからないみたいだけど、頻りに照れている。ほたるちゃんは「じゃあ、もう一曲弾くわね。これはあたしときららちゃんからタカちゃんに捧げます」というと、あたしをピアノのそばに立たせたまま、その曲を弾き始めた。それはピアノ教室で先生があたしたちに聞かせてくれた曲で、メキシコだかのなんだろうというような作曲家が自動ピアノのために作曲したものだ。ほたるちゃんはそのレコードを何度か聞かせてもらううちに覚えてしまったのだ。史隆とママはそれを聴きながら、なんだか困ったような顔をしていた。
「もう、このビデオ見るのやめない？」
「どうして？」
「昔の自分を目の当たりにしているのってなんだか居たたまれないよ」
「じゃあもうやめましょうか」
あたしはビデオを止めるとテープを取りだし、史隆に渡した。これはあたしからの最後のプレゼント。
史隆はそのテープをテーブルの上に置くと、ため息をついた。
「まあまあ、ため息なんかつきなさんな」
そういって史隆のほっぺたにキスをした。すると史隆はそのままふらふらとあたしにキスしようとするので、思いっきり引っぱたいてやった。
史隆は目を潤ませてリビングを出ていった。後ろ姿が寂しいぞ。
さっきのビデオテープに「子供の情景」というタイトルを付ける。それから抜き足差し足でリビングを出る。ユーレイだから抜き足差し足なんて簡単だ。それに、史隆が寝室にいて、ベッドに仰向けになって天井を眺めていることだってわかっている。
ドアを開けて寝室に入った。ドアを開けずに入るのはやっぱり不自然だと思ったからだ。史隆は目を閉じていた。あたしは生きていた頃から得意の百面相をして史隆の顔を覗き込んだ。史隆は突然目を開け、そしてがばっと飛び起きたので顔面と顔面が衝突した。あたしは目の前に火花が飛んで、そのまま床にしゃがみこんだ。ユーレイだって痛いんだ！
しばらくして起き上がると史隆は額を押さえてベッドの上に起き上がっていた。
「もう、帰れよ」
「やだ」
「どうして」
「あたしのことが嫌い？」
「そんなことはないけど」
「でも、ほたるのほうが好きだったんだよね」
「うん」
「どうしてあたしよりもほたるの方がよかったの？」
「さあ」
「あたし、史隆がほたると付き合ってるって知ったとき、すごくショックだったんだよ」
「その話は聞いた」
「ほたるから？」
「いや、君から。ねえ、昭彦と何かあったの？」
「何も。あいかわらず仲良しだよ」
「じゃあ、人を誘惑するようなことをするな」
「ユーワク？ 史隆、ユーワクされてると思ってるの？」
「だってさっきいきなりキスしたじゃないか」
「小学生のガキじゃないんだから、ほっぺたにキスくらいでぐちゃぐちゃいうんじゃないわよ。あれはアイサツ。大人のアイサツ」
「じゃあ、もう一度キスしてくれ」
あたしは史隆のおでこにキスした。ちゅっ。史隆はイライラしてるみたいだった。ほんとにイライラしているのだろう。だったらもっとイライラさせてやる。
「今晩、ここに泊めてね。あたし、ほたるちゃんのベッドに寝るから」
「帰れ」
「いやだ」
「帰れ」
「いやだ」
「帰れ」
「いやだ」
「帰れ」
「いやだ」
「帰れ」
「いやだ」
「帰れ」
「いやだ！」
あたしは毛布にくるまると着てるものを全部脱いだ。生身の体だったらそれなりに骨が折れたかもしれないけど、ユーレイだから簡単だ。それから。脱いだものを全部丸めて史隆に投げ付けた。史隆はあたしの脱いだ下着をしげしげと眺めると、「これはほたるのじゃないか」といった。
「そのとおり。さあ、シャワーを浴びてらっしゃい」
史隆は動物園のクマみたいに部屋の中を二、三度行ったり来たりしてから、部屋を出ていった。
あたしは毛布にくるまったままほたるちゃんのルージュで鏡台に気のきいた言葉を書こうとしたけど、思い浮かばない。いい言葉が浮かばない。ルージュの伝言としていちばん適切な言葉ってなんだろう？ ブリジットがあの映画の中で残した言葉は何だったっけ？
結局あたしはほたるちゃんの鏡に、
Bye-Bye!
Kirara xxxx
とだけ書いた。鏡に写るあたしは生きてるときとあんまり変わらない。やもめ男を誘惑する人妻、という役割は似合わないと思う。それに、もう、いい。やることはやった。というか、全部その場の思い付き。そもそもあたしはここへ何しに来たのだろう？
あたしはティッシュでルージュの伝言を拭き取って、ごみ箱に捨てた。こんなのは必要ない。じゃあなにが必要なんだろう？ あたしは五分間全神経を集中して考えた。よくわからない。わからない。
誰にも聞こえないように叫んでみた。もっと叫んでみる。もっと、もっと、叫んでみる。声が枯れるまで、叫んでみる。でも、ユーレイだから、声は枯れない。だから、叫ぶのをやめた。
もういいや。なんだか疲れたし。
アキくんは大学病院の霊安室にいた。お棺の中にはあたしがいるんだろうけど、あえて覗かない。自分の変わり果てた姿を見たら、成仏できなくなっちゃうかもしれない。アキくんは黙って足元を見つめていた。あたしもいっしょに見つめてみた。でもそこにはなにもなかった。
あたしは後ろからぽん、と肩を叩いた。アキくんは振り返った。別に驚いてもいなかった。
「座って」
アキくんは自分の隣のパイプ椅子を指してそういった。あたしはそこに座った。
「ほたるちゃんが死んで、まだ一年も経たないのに」
アキくんは無表情だった。泣いている様子も、泣いていた様子もない。
「ねえ、顔色が悪いんじゃない？」
あたしはすごく心配になった。
「いや、大丈夫。体は丈夫だから」
「だから心配なのよ。アキくんは風邪ひとつひいたことがないっていうのが自慢だったわよね。でも、そこが心配なの。それはただ運がいいだけのことなのかもしれないのよ。体を過信しちゃ駄目。ときどきは休まないと駄目」
「そういえば、ずっと休みを取ってなかったね。夏休みだって、時間は十分に取れたはずなのに、どこへも行かなかったね」
「いっしょに結婚記念日を祝ったじゃないの！ あなたの作ったお料理、とってもおいしかったわ」
「そういってくれると、嬉しいな」
そしてあたしたちはしばらく黙ったまま並んで座っていた。そしてこの日の終わる236秒前に「お別れね」とアキくんにいった。アキくんはうんともすんとも言わなかった。よく見ると船を漕いでいた。最後なんだからカッコつけさせてよと思ったけど、まあいいや。
「特に、舌平目のムニエルは最高だったわ。前にどこだかのレストランで食べたのよりもおいしかった。それから、あの白ワインのおいしかったことといったら！ それに、あのワイングラスは新婚旅行のときに買ったものだし、あのときの騒ぎ、覚えてる？ あたし、アキくんとの五年間、本当に、ほんとうに、楽しかったわ。五年間の最後がこれだなんて、ほんとうに申し訳ないと思ってる。でも謝るよりも、あなたに感謝します。さようなら、愛するあなた」
こんなふうにさっきの会話の続きを続けたんだけど、アキくんは目を覚まさなかった。でも、寝顔が可愛いから、許してあげよう。じゃあね、アキくん、ご機嫌よう。
さよなら。