この季節、どこの花屋の店先にもカーネーションが置いてある。切り花、鉢植え、色も、赤いもの、ピンク色のもの、といった具合。とてもきれい。新緑の季節に似合うと思う。いくつもならんでいる鉢の中からひとつ手にとってみたくなるけど、その理由がないからためらってしまう。母親はいないし、母親でもない。誰かの母親なら、そんな鉢のひとつを手にとって、実際には何の連絡も寄越さない子供たちのしてくれてしかるべきことを夢想するかもしれない。
可憐なひと鉢を贈る相手もいなければ贈られる見込みもない。少なくとも今の季節に出回っているカーネーションは。
美しいひと鉢を手に取ることもなく、それゆえため息混じりにそれを置くことさえないのだが、心の中ではそれをひととおり演じてみる。そんなことしてなんのためになる？ なんのためにもならない。でもそうしてみる。心が豊かになるわけでもなく、満たされるわけでもなく、母親のいない悲しみに浸るわけでもなく、母親でないことの仕方なさを確認するわけでもなく。
想像の中での自分が美しい、ということでもない。なぜなら想像の中の自分をどんなに飾っても美しくはないから。美しいと思い込もうとしてもどうしてもできないから。じゃあ想像の中の自分がドラマティックでないかといえばそうでもない。美しくない自分が遅い春の日差しをたっぷり浴びてカーネーションのひと鉢を手にしているのは、それなりにドラマティックだ。中身が空っぽでも豊かな心を持っているように見えるかもしれないし、とても満たされているように見えないでもないかもしれないし、微笑みながら亡き母親のことを思いだしているように見えるかもしれないし、自分が母親でないことにため息をついているように見えることだって一万分の一くらいの確率でないとも限らない。
あなたは――妹からそう呼ばれると少しだけ不思議な気持ちになる。きょうだい、親子、配偶者のどれでもあるような感じ。
あなたはわたしの兄なのだから想像の中であってもカーネーションを弄ぶのはやめて欲しい、と言った。母親の死んだすぐあとの、今頃の季節のこと。
がらんとした、日曜日の夕方が耐えられなくて、妹と二人で散歩に出かけた。どこへ行こう、という心づもりもなく。
彼女がいたはず、母親が死んだ少し後までは。どうなってしまったのか？ 向こうからの連絡もないし、こちらからも連絡しない。このまま関係は消滅してしまうのだろうか。向こうが連絡してこない理由はわからないが、こちらの理由は内部的には単純だ。連絡するだけのエネルギーが残っていないのだ。
休日はテレビも見ないし本も読まない。それだけのエネルギーが残っていないのだ。ラジオを垂れ流しているが、実際には聞いちゃいない。
妹も似たり寄ったりだった。休日のたびにデートをしていたはずなのに、どこにも行かずにぼーっとしている。互いの長電話で喧嘩することもない。
彼氏とはどうなったのだろう？ たぶんこっちと似たり寄ったりなのではないだろうか。
連休だって、前半に四十九日法要を終えてしまうと、することなんて何もなかった。法事の帰り道、まっすぐ家に帰るのがどうしても嫌で、デパートの中を二人でうろうろしているうちにおもちゃとか文房具とかを売っているフロアに出て、偶然ジグソーパズルのコーナーにぶつかって、そこで妹が手にしたのがヨーロッパのどこかの街並みを写真に撮ったもの。テラスにはカラフルな花がいっぱい。
ほら、お母さんってヨーロッパが好きだったじゃない？
それで連休後半の過ごし方が決まった。ラジオを垂れ流しながら朝から晩まで断続的に、パズルを組み立てた。疲れると食事を作ったり食べたりお風呂に入ったり眠ったりお酒を飲んだり、という具合。できあがったパズルは接着剤で固めて額に入れ、居間に飾った。万歳。
でも、いったいその次の週末に何をすることがあるだろう？
目的もなく歩いているうちに商店街に出て、花屋の店先にやって来たときになってようやくその日が母の日であることに気付いた。だいぶ少なくなってはいたけど、花屋の店先に並ぶカーネーションを前に、申し合わせたわけでもなく二人して呆然と立ち尽くす。とてもショックを受けていたのだ、たぶん妹も。
「そうか、今日は母の日だったんだ〜〜〜！！」
と心の中で叫んでしまった、たぶん妹も。絶望とか悲しみとかじゃなくて、しまった！ に近い。そう思う必然性など何もないのに。
二人して立ち尽くしているところに麗しき店員が微笑みを湛えて近寄ってきた。
「母の日の贈り物ですか？もう、時間が時間ですからサービスさせて頂きますよ。いかがですか？」
妹と顔を見合わせた。言葉よりも先に出てきたのは財布だった。
そして二人で抱えきれないほどのカーネーションを買って帰ってきた。
ひと抱えもあるほどの花束と、大きめの鉢を三つ。
「きっとお母さま、喜びますよ」
売れ残りが減ったせいかどうかは知らないけど、店員はもうありったけ、という感じの笑顔を浮かべた。こちらもつられてそんな顔をしていたかもしれない。
帰ると玄関が夕日で溢れていた。なんてさわやかな五月の夕暮、そして母の日。ある意味幸せを絵に描いたような光景。でも玄関の戸を開ける前に、二人してがっくり肩を落として「はあ」とため息のユニゾン。顔を見合わせて、もう一度ため息。
ついこないだまで仏事に相応しい地味系の花で溢れていた花瓶にカーネーションを活ける。でも全部は入りきらなくてプラスチックのバケツにも活ける。それと鉢植えのカーネーションを仏壇の前に並べるとすごく変な感じだ。
申し合わせたように二人でその前に座り込むと、動けなかった。
少なくとも一時間はそうしていたのじゃないだろうか。
そして長い沈黙のあと、妹が言った。
「あのさあ、あなたってカーネーションの花束抱えてるとすごく似合うのよ。でもそれが、女の人に花束を渡す、っていうよりも、花束を渡されてはにかんでる、って感じなのよね。わたしよりも女顔だし。兄じゃなくて姉みたい。料理だってわたしよりもうまいし。でも、あなたはわたしの兄なのだから想像の中であってもカーネーションを弄ぶのはやめて欲しい。今は、姉よりも兄が必要なの」
ぎくりとした。というのもカーネーションを弄ぶ自分というのを想像していたから。きょうだいはとは恐ろしい。
で、結局千円分の切り花を買ってきて花瓶がないからガラスのコップに活けてみたりするのだが、花がどう感じているかはともかく、見ている方としてはどこか心がうきうきしてしまう。たとえば、そんなあてもないけど、新しい恋に出会う予感とか。ね。