"There's rosemary, that's for remembrance; pray,
love, remember: and there is pansies. that's for thoughts."
――W.Shakespeare "Hamlet" Act 4, Scene 5, OPHELIA
飛行機の離陸というものはいつでもなにがしかの感慨をもたらすものであるなどとは少しも思わないが、文字どおり地に足が着かなくなる瞬間、足の裏がかゆくなる。そのことを隣に座っている姉に話すと、「飛行機の中で足の裏の話をするんじゃあない」とでも言いたげな刺々しい視線を私に向けた。
私は到着予定地のとあるホテルのバーで母親と酒を飲んでいる。母親はなんとかいうカクテルを半分くらい飲み干して、ほんのりと顔をあからめている。ここ数年、なんだか若返ったように見える。私は最近嗜むようになったウイスキーの水割りを飲んでいた。
飛行機はいつまで経っても傾いたままだった。つまり、上昇する姿勢のままだった。私は飛行機の床の上に硬球のテニスボールを置いたらどんな挙動を示すのだろうかということを考えた。そしてその考えを姉に伝えた。姉は一瞬私の顔を見たが、すぐに読んでいた本に視線を戻した。
姉は薄っぺらな文庫本を読んでいたが、突然栞も挟まず本を閉じると私たちがその晩泊まることになっていて、すでに母親と私が滞在しているホテルについてどう思うかとたずねた。私はそのホテルがその都市では一、二を争う格式を誇るホテルであると答えた。
「そうじゃなくて」
姉はそのホテルについて何やら不安を抱いているという。姉の心配はまったく正しいのだが、私はそのことについて話したくなかったし話すべきでもないと思っていたので、何も問題はないだろうとだけ答えた。
しかし母親はその時すでにその問題に気付きはじめていた。というのも私たちのすぐ横に座っていた若い男女がそのことを話題にしていたからだ。
「幽霊？」
「うん、こないだ人に聞いたのだけど、幽霊が出るんだって」
「そういう部屋って閉鎖すべきじゃない？」
「ホテルだって商売だから、開かずの間をつくるわけにはいかないんじゃないのかな。で、そういう事件のあった部屋というのは、改装して、お祓いをしてもらうらしいよ」
「でも、そういう部屋に当たったら嫌よね」
「で、俺の先輩って人がその部屋に泊まったらしいんだけど」
「幽霊を見たの？」
「いや、その先輩は霊感が弱いらしくて幽霊もＵＦＯも見たことがないんだ。だからそのときも幽霊は見なかったんだ。でも、その部屋の浴室が、すごく『嫌な感じ』だったんだって」
美佳は身体を浴槽の中に横たえている。口許がときどき動いて何かを口ずさんでいる。私はそれを聞き取ろうとする。
美佳の身体は赤い着物に包まれている。着ているのではなく、包まれている、あるいはくるまれている。腰のところは幅の広い帯で、それから胸の少し上のところを細い紐で、胸の前で交差された腕とともに縛られている。
縛ったあと、花冠を頭に載せてやると嬉しそうに笑った。花冠は美佳が自分で作ったものだ。着飾った美佳を抱き上げ、バスルームに連れてきて浴槽の中に静かに横たえた。
羚羊のような美佳の脚は狭い浴槽の中で自然に折り曲げられ、着物の裾がはだけたところからは、うっとりするような白い腿が覗いていた。
母親は彼らの会話が嫌だったのか、席を移らないかと言い出した。しかしもはや私はその二人のそれ以外この世に意味のある会話など存在しないと感じはじめていたので、飲みかけのカクテルグラスを持ち歩くのは縁起が良くないとかなんとか、自分でもよくわからない理由をつけて母親共々その席に留まった。
もちろん姉がそんなことを知るはずもない。しかし執拗だった。霊感が強いからかもしれない。
「この間泊まったホテルの部屋には自縛霊が取り付いていたのよ。で、一晩じゅう眠れなかった」
「それはラップ現象でうるさくて眠れなかったとか、そういうこと？」
「自縛霊が呪いの言葉を一晩じゅう叫んでたのよ」
「なんて叫んでたの？」
「『生きてる奴等は皆殺しだ』とか、『お前はすでに呪われているから俺にはお前を呪うことができない』とか、『犯してやる』とか」
「それは確かに眠れそうにないね」
「で、言ってやったの」
「なんて？」
「『黙れ』って」
「そうしたら？」
「黙ったよ。で、あとでひとりでぶつぶつ言ってたよ。『だっておれのいうことわかる奴は滅多にいないんだもん』だって。だからもう一度言ってやった。『やかましい！！』って。そうしたら静かになったけど、もう夜明けだった」
姉の泊まる部屋は美佳の横たわっている／いた部屋になる予定だ。
美佳を横たえた浴槽に湯が溜まりはじめると、着物はまるで動脈から迸り出た血のような色を呈しはじめ、美佳の白い肌も少しずつ紅潮しはじめた。湯を入れる音にかき消されていたが、美佳はまだ何かを口ずさんでいた。
美佳の顔が沈む直前に湯を入れるのを止めた。
飛行機が突然がたがたがたと揺れた。姉は急に押し黙ると肘掛けを掴んだ。
カウンターの向こう側でグラスのぶつかり合う音がしはじめ、すぐにそれ以外のさまざまなものも音を立て始めた。
「地震だ！」
隣の男女が叫ぶように言った。私と母親は顔を見合わせただけだった。というのも、私たちの住んでいる地方では地震などめずらしくもないからだ。
「震度２」と私は言った。
「そうね、そのくらいね」と母親が言った。
私は美佳の写真を撮り始めた。フィルムを装填し、ストロボの準備を――バスルームの電気を消し、暗室用のライトを付けた。換気扇も止めた。浴槽の中からはかすかな歌声。そのメロディに聞き覚えはあったが、なんという曲かはわからない。それは今飛行機の中で掛かっているのと同じ曲だが、姉に聞いても「知らないわ」と返された。歌っている美佳の顔は影になって見えない。
そのメロディは度々頭の中でエンドレスに鳴り続けるのだが、それをどこで最初に聞いたのかは覚えていない。
祖父母の家の庭はどういうわけか二階にあった。縁側の藤椅子に座って庭を眺める。強い日差しが庭石を焼く。そしてそのメロディがくり返される。それは実際に聞こえているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
浴槽に手を差し入れる。水面には波紋が広がり、その波紋は美佳の身体にぶつかって複雑な文様を織り成していることだろう。やや微温めの湯の中に掌を漂わすと何かが手に絡み付く。さらに絡み付いたものの中に掌を泳がせていく。指先はやがて柔らかいものに触れる。
「なにすんのよ」姉は小さいが鋭い声で私に言った。母親は溜め息をついた。私は美佳の頬をなでてやる。美佳はきっとうっとりとした顔をしているのだろう。美佳は私に頬をなでられるのが大好きなのだ。二階にある庭にも蝉がやってきて、ひとしきり鳴いたあと、おしっこをして飛び去った。
私は三脚の前に跪いてレリーズボタンを押した。バスルームは一瞬青白い閃光に包まれ、その映像は残像として私の網膜に焼き付けられる。鮮やかな赤、遠くを見ているような眼差し。そしてその映像は記憶のように薄れていく。
私は浴槽の中を手探りして、美佳の身体を縛っている紐と帯をほどいた。着物のはだけたところからは美佳の素肌が覗いているはずだ。私は着物の赤と美佳の肌の色とのコントラストを想像した。
そのとき暗室用のライトが消えた。手探りでライトを探してスイッチを切ったり入れたりしてみたが点灯しなかった。プラグは確かにコンセントに挿さっていた。原因を考えてみたがよくわからない。ストロボを発光させようと手探りでレリーズのケーブルを探したが見つからない。その拍子に身体のどこかを三脚にひっかけて倒してしまう。ごん、という鈍い音。手探りでカメラを探し当てたが、壊れてはいないようだ。しかし手が濡れていたのでレンズを濡らしてしまったかもしれない。シャッターを切ってみたがストロボが発光しない。ストロボのスイッチも入れたり切ったりしてみたが反応がない。バスルームの外へ出るとそこも暗かった。電灯のスイッチに触ってみたが、スイッチがかちりという音を立てるばかりで何も起こらない。停電なのだろうと判断してバスルームに戻り、手探りで浴槽のところまで戻る途中で便器に向こう脛をぶつけてあまりの痛さにしばらくその場にしゃがみこんで、それから美佳の横たわっている浴槽にたどり着くと、美佳は私のことを見据えていた、と思う。私は服を着たまま浴槽の中に自分の身体を横たえ美佳の頬をなでてやった。美佳は目を細めうっとりと私のことを見つめている、はずだ。そのとき突然何か強い力が私の頭を湯の中に沈めた。ほんの数秒のことだったが、浴槽の湯をしこたま飲んでしまうほどに唐突だった。私と美佳はしばらく浴槽の中に座って咽ていた。そしてまだ私が咽ているうちに美佳の絶叫が聞こえた。浴槽のカーテンを引いた覚えはなかったのにそれにシャワーの湯を浴びせたみたいなざあっとう音がし、生暖かい液体が私に降り注いだ。金属的な味のする液体が唇から口の中に侵入し、同時に同じ味のする液体が内側からも染み出してきていた。何か硬いものが私の頭を打ち付けたことと関係があるかもしれない。一瞬気が遠くなりかけたが、私はぬるぬるする浴槽の中をまさぐり美佳を探した。美佳の身体はすぐに見つかった――私に凭れかかっていたのだ。ぐったりとした美佳の身体はたっぷりと湯を吸いこんだ着物とあいまって鉛のように重かった。声を掛けても身体を揺すっても何の反応もない。暖かくてぐにゃぐにゃの身体から着物を取り去り、頭からうなじ、肩、背中、腰、と掌を滑らせる。そして左の太股、膝、ふくらはぎ、かかと、爪先へと触れていく。それから恥丘を経て右の太股――美佳の羚羊のような右脚は腿の付け根からなくなっていた。私はもういちど頭から顔、首筋、胸へと掌を走らせた。すると、両の乳房のあいだの皮膚が大きく裂けていて、指を滑り込ませてみるとその傷はかなり深いことがわかった。指が肋骨を探り当てたとき、私はほとんど気を失いかけた。右脚を浴槽の中に探したが見つからなかった。
私は壊れた美佳の身体を強く抱きしめた。しかしぐにゃぐにゃの柔らかく暖かい肉体から生暖かい液体が絞り出されるだけのことだった。
私は眩暈を感じながらも立ち上がるとカーテンを開け、浴槽から出た。そしてバスルームの扉を開け電話に向かった。とにかくフロントに連絡しなければと思ったのだ。しかしベッドの手前で何かにつまずいて転んだ。それはもちろん美佳の右脚で、持ち上げてみると意外と重く、爪先から膝の裏、腿へと触っていくと、まだ暖かく弾力もあり、まるで跪いて美佳の脚をなでまわしているような気分だった。しかしいちばん違うのは掌が腿の内側を滑っていく先に見いだしたものが皮膚の断面、筋肉、腱、そして大腿骨であるということだった。生暖かく、ぬるぬるして、ところどころこりこりした腱やら筋肉やらのあたりをまさぐっているうちにびくんと脚が痙攣した。驚いて投げ出すと、どすんという鈍い音をたてて床に落ちた。
ベッド伝いにどうにか電話機にたどり着いた。しかし電話機は美佳の右脚ほどの反応すら示さなかった。カーテンを開けると外も暗かった。このあたり一帯が停電なのかもしれない。
バスルームに戻ると湯が浴槽に注がれている音がした。私は何物かがそこに潜んでいると確信した。だが息を殺してバスルームの中に入っても誰もいなかった。しかし、先程まではなかったものがあった。それは香水の匂いで、美佳がときどき使っていたものだった。
”There's rosemary, that's for remembrance; pray,
love, remember: and there is pansies. that's for thoughts.”
それはまぎれもなく美佳の声だった。私はものすごい力で腕をつかまれ、浴槽の中に引きずり込まれた。湯はあふれんばかりで、実際、大量の湯があふれたことだろう。
浴槽の中で、私のからだは徐々に壊されていった。まず、美佳と同じように右脚をもぎ取られ（失神するほどの激痛）、それから右手の親指、左腕、耳たぶ（感覚は少しずつ麻痺）。眼球は先割れスプーンでえぐり出された（もうほとんど痛くない）。それから左足の人差し指を毟り取られ、胸部から腹部にかけて切り裂かれ腸が引きずり出され、心臓に穴が開けられ、肺が潰され、生殖器官を細切れにされ、頭蓋に穴を開けられ脳を掻き出された。
この地に滞在して三日目の午後、美佳と二人で海を見に行った。それは海岸まで工場が立ち並ぶ入り江で、その一角の閉鎖された工場の裏の防波堤に座って海を眺めた。防波堤の下はすぐに海で、波消しブロックの隙間に海水が見える。海水が波消しブロックの間に打ち寄せるとき、不自然な白い泡が発生した。洗剤でも混じっているのかもしれない。波消しブロックには干からびた海草や菓子の袋や油の汚れみたいなものや動物の死骸の一部分みたいなものとか、いろいろなものがこびりついたり張り付いたり絡み付いたりしていた。美佳は靴を脱ぐと防波堤の上に並べて置き、防波堤に座って足をぶらぶらさせた。なぜ靴を脱ぐのかと尋ねると、靴を海に落してしまわないためだと言う。私もまねをして靴を脱ぐと、同じように防波堤に腰掛けて足をぶらぶらさせた。飛行機に乗ったときのように足の裏がかゆくなった。
「ねえ、もし靴をここに忘れていったら、誰かがここで心中したって思うかなあ？」
「それ以前に、たとえ二人並んでここで死んでいたところで、ミイラか腐乱死体になる前に誰か発見してくれるのかな？」
「それもそうね。それに、あなたはともかく、私のことを思い出してくれる人なんて誰もいないだろうしね」
からだの各部分はさらに細かく分解され、すでに分解の進んでいた美佳のからだと溶け合い、浴槽の中で生暖かいスープになった。そして浴槽の栓が抜かれ、私と美佳のスープは渦を巻きながら下水へと流れていく。そしてその渦の中で私は――私たちはもういちど美佳の声を聞く。
”There's rosemary, that's for remembrance; pray,
love, remember: and there is pansies. that's for thoughts.”