よく晴れた、何も考えたくなくなるような暖かい春の日。
母とぼくは霊園最寄りの駅に降り立った。最寄りとはいっても、霊園入り口まで徒歩２０分。さらに、我が家の墓所までさらに徒歩１５分。
駅から霊園までバスが出ているが、終点「霊園入り口」から実際の霊園入り口まで徒歩５分。つまり、バスに乗っても２０分は歩かなくてはならない。
しかし、タクシーを使えば駅から墓所までまったく歩かずに行くことができる。というのも、霊園の中まで車を乗り入れることができるからだ。
しかし、駅前広場に出て空を見上げるや否やタクシーに乗る気をなくしてしまった。それはタクシーのせいではなく、太陽のせいだ(笑)。青い空にはところどころ綿のような雲が浮かんでいて、少しまぶしい太陽。よし、歩こう。それがぼくのロジックだ。
でも、母はぼくの倍くらいの年齢だ。もともと「足弱」であるとしても、いや、実際には足弱どころではない。北上川の土手で鍛えた健脚は、ぼくの及ぶところではない。しかしそれでもそれなりに気をつかわなくてはならない。と思う。
「どーする？タクシーで行く？」
母は挑戦するような笑みを浮かべて、「歩いていこうよ」と言った。これでよし！
かくてぼくら親子は霊園往復の長い長い旅に出たのである。
まずは駅前広場を強行突破。果物屋の店先をかすめ、車一台がやっと通れるくらいの狭い道なのにやたら交通量の多い道を右見て左見て右見て横断、即座に右折本屋をかすめて信用金庫の前へ。前方から接近してくる自転車をかわし、横から飛び出してくる小学生をなぎ倒し──なんてことはしないけど──、片側２車線の道路を横断。この道路を横断するには 二つの方法があって、ひとつは信号が青になるまで待って横断歩道を渡る、もうひとつはあまり使われていないとおぼしき地下道を渡るというものである。とうぜんぼくたちは横断歩道を渡る。なにしろ地下道を渡った日には階段を降りて、もう一度上らなければならない。その間に信号でも変わろうものなら噴飯ものである。
で、２車線の道路を渡ってすぐの民家の玄関先に清涼飲料の自動販売機がある。ぼくたちは烏龍茶をニ缶買った。あとで墓地で飲むのである。
それから神社の横の坂を下って、ごみ置き場でカラスが食料を漁っているのを横目に、突き当たりを右折する。右手にそびえ立つ石垣の上には城ならぬ大きな家。
「大きな家だなあ」
「このあたりに昔からある農家でしょう」
すっかり恒例となった会話を交わしながらさらに坂を下る。野菜の無人販売所の前を過ぎ、陶芸店のかどを曲がって少し行くと、街路樹の続く二車線の道路に出る。この道路の突き当たりが霊園入り口だ。
街路樹の木陰が嬉しい日差しの強さ。ぼくたちは並んで黙々と歩く。こぼれる汗。
やがて石屋さんが目立つようになってくる。そう、霊園出入りの石屋さんの大半がこの通りに集まっている。店先にはぴかぴかに磨かれたいろんな色をした御影石の墓石が並べてある。なかにはペンギンの形に彫った御影石を置いている店もある。
「あんた、ああいうのいいんじゃない？」
「いや、ごめんだよ。どうせなら大谷石の蛙でも墓石にしてもらいたいものだね」
「でも、あれは雨にあたっているうちに黒くなっちゃうでしょ」
「まあ、それも風情があっていいのではないかと思ったりするんですけど」
で、我が家御用達の石屋さん。「こんにちはー」とガラス戸をがらがら開けると、奥から中年の女の人が出てきて「いらっしゃいませ」と頭を下げる。
「お線香とお花を下さい」
店の人は壁に作り付けの棚にずらっと並べてある手桶の中から我が家の家紋と名前の入っている、ちょっと古びたやつを取ってくれる。それにひしゃくを一本添えてぼくに手渡す。
「花はあんたの好きなのにしなさいよ」と母。
ぼくは派手好きの父にいちばん似つかわしいと思われる花を一対選んだ。まあ、墓前に供える花だから、そんなに派手というほどのものでもないんだけど。
「いってらっしゃいませ」
中年の女の人が霊園に向かうぼくたちに頭を下げる。「中年の女の人」なんて書いちゃったけど、「奥さん」なのかもしれないな。まあいいや。
「地獄の門（ぼくが勝手にそう呼んでいるだけで、実際にはなんていうこともない石造りの門と黒い鉄製の扉）」をくぐって、いよいよ霊園の中へ。ここに来るのは約一年ぶりだ。
一年前の一周忌の法事は散々だった。雨には降られるし、ぼくや母の乗っていたタクシーが霊園に入る直前に電柱に激突して車は小破、ぼくはフロントガラスに頭をぶっつけた。それから連絡が行き渡らなくて、参加者も少なかった。
いやあ、冗談好きの父らしいよ。ほんと。そういえば四十九日法要の日は雷雨だったっけ。
ところで、４月１日は一年に一度必ず巡ってくる。だから当然その日に死ぬ人間だっている。たとえばぼくの父がそうだ。
容体が急変したのは３月に入ってからのことだった。で、そのまま超低空飛行を続けて３月の終わり頃、いよいよだめだということになった。３月３０日、３１日、そして４月１日の大半の時間を、病院の父親のそばで過ごすことになったのだった。
で、３月３１日の夜、誰かに連絡の電話を掛け終わったとき、ふとへんなことを思い付いて、思わず一人で笑ってしまった。それは父親の最後のエイプリルフールの冗談がまさにその日に死ぬことなんじゃないかなという思い付きだった。父ならやりかねない。
父は４月１日エイプリルフールに彼の娘や息子たちをたぶらかすのを習慣としていた。もっともありがちな嘘というのが「雪が降っている」というものだった。まだ眠っているぼくたちを、隣の部屋から「おい、今日は雪が降っているぞ」と起こすのだ。
前の晩に「明日はエイプリルフールだからお父ちゃんに騙されないようにしよう」と思ったことなんて、「雪」という言葉に魅せられた寝起きのぼくたちに思い出せるはずもなく、いそいそと玄関に出ていってドアを開けるとぼんやりした青空が広がっていたなんてことは一度や二度のことではない。すくなくとも三度はあった。
別なときは、某横綱がヤクザと喧嘩して刺されて重体なんて嘘のこともあった。
あと、よく覚えていないのだけれども、起き抜けに「大統領が暗殺された」と言われたこともあった。それは４月１日のことではなかった。テレビを見ると、隣国の大統領が暗殺されたというニュースが伝えられていた。
その妙な思い付きのことはもちろん誰にも話さなかった。
父は医者によればもう意識はないということだった。でも兄が「うちの家族と一緒にディズニーランドに行きたかったね」と言ったら、うーうーうなって涙を流したそうだ。それが３月３１日の午後のこと。
その頃は体の中の至る所で出血していて、口の中もすぐに血でいっぱいになった。そしてそれをときどきゴムのチューブで吸い取ってやっていた（本当は、それは医療行為にあたるので、医者か看護婦以外はやってはいけないのだそうだ。ただ、ついついそばにいるとそういうことをやってしまうのだ）。そうしないと、呼吸のたびに血しぶきを吹き上げることになってしまいうからだ。
ほんとうに意識が戻っていた時間があったのかどうか、そのときの父の目の動きを追っていたぼくにはどうしても信じられなかった。
そして４月１日の夕方、容体は急変した。そのとき病室にはぼく一人しかいなかった。
「誰か一人はここにいて下さい」と看護婦さんに言われたけど、連絡を取らないわけにはいかない。で、二、三分のうちに家に連絡して戻ってくると、心電図やらなんやらの機械が部屋の中に運び込まれていた。
そしてそのまま時間が過ぎた。家族も集まってきた。４月１日が終わるまで、あと三十分。父の最後の冗談はないかなと思えてきた。ところがその頃から心拍や血圧に変化が出て、結局４月１日もあと数分で終わるというときに息を引き取ったのだった。
父の最後のエイプリルフール。
こういう話をこの辺に持ってくるのは、確かに、イヤラシイ。それはぼくも認める。ただこういう話をするには、果物屋の店先よりも「地獄の門」をくぐった先のほうがふさわしいと思うのだ。
しかしながら、ぼくと母はそんな話なんておくびにも出さなかった。そんなことわかりきったことを、こんなに気持ちのいい空の下でくり返す気にはならなかったのだ。いや、繰り返したよ、やっぱり。
「お父さんにはできる限りのことをしてあげた」と母。
ぼくもそう思う。いやあれはできる限りのことを完全に越えていたよ。できないはずのことすらしていた。うんうん、ぼくはよくわかっているよ。言葉にしてもしなくても、よくわかっているよ。そりゃ、ときどきその繰り言にうんざりしちゃうこともあるんだけど、でも、ぼくもできる限りのことをするよ。話したいことはみんなぼくに話してくれればいい。
霊園名物の桜はまだまだ一分咲きか二分咲きといったところだ。でもこの気温なら、あるいは今日中に五分咲きくらいになるかもしれない。
さて、「地獄の門」からてくてく歩いて１５分、やっと墓所に着きました。しおれた花を片付けて、途中で手桶に汲んできた水をひしゃくで墓石にかける。水の掛かったところだけ、石の色が黒く変わる。
実はこの墓は母の父と母、すなわちぼくの祖父と祖母のもので、父は少しだけ肩身が狭いかもしれない。でも、みんな一ヶ所に集まっている方が、なんだか寂しくなくっていいなとぼくは思う。だめかな、そういうのって。
墓誌の、父の名前のところだけ、まだなんとなく白っぽい。よく馴染んでいない。
さて、霊園でもこのあたりはいつでも風が強くて、線香の束に火を付けると、消しても消しても炎が上がってしまう。炎をあげて燃える線香っていうのは、野蛮っていうよりも下品だ。それからはるばる新宿から持ってきた中村屋の種月餅と餡月餅（種月餅は父よりもぼくの好物なのだ。どうせ食べるのはぼくと母なのだし、それに父だって好きだったことに変わりないんだし）、桃山と、グレープフルーツ、そして花を備えてできあがり。ぼくも母も黒い服ではないんだけれども、まあいいでしょうということで。
ふたりで墓に向かって手を合わせる。それからなんとなく黙ったまま墓石を見つめていた。ぼくも、母も。
本当は今日は三回忌にあたる。ところがいろいろと事情があって、三回忌は秋に伸ばさざるを得なくなってしまった。でもそれじゃあ仏さまが寂しかろうとぼくと母の二人でとりあえずお墓参りに行ってあげよう、そしてどうせなら４月１日に行こうじゃあありませんかということで、わざわざ休暇をとって出掛けてきたというわけなのであります。
ぼくたちは線香が燃えつきるまでその場にいた。仏さまのためというよりも、火が付いたままその場を去るのが危険だと判断したためだ。こういうところはぼくと母はよく似ている。
ぼくも母も、もう泣いたりはしない。たぶんぼくは父の死に際して一度も泣かなかったし、ぼくの知っている限りでは母は一度しか泣かなかった。
告別式の日は朝からよく晴れていた。今日みたいに。ぼくはなんだかすがすがしいような気分になっていた。
人もだんだんに集まってきて、やがてお坊さんもやってきて、読経を始めた。そのとき、母は喪主の席に座っていて、頻りに涙を拭いていた。がらっと開けた窓から爽やかな風が吹き込んできていて、お坊さんの声も朗々と響いていて、しめやかではあるけれども晴れ晴れとした空気が漂っていた。
母の泣く姿は美しかった。絵のようだと思った。もちろん母にも誰にもそんなことは言わなかった。
景気よく燃えた揚げ句に燃えつきた線香を後にして、ぼくたちは墓地の中にある芝生の広場に向かった。お菓子はもちろん持ち帰ります。カラスにはあげません。
広場の芝生はまだまだ枯れ色のままだった。それでも幾組かの家族やグループが「芝生」の上にレジャーシートを敷いて、お弁当を食べていた。ぼくたちは芝生の上に敷くようなものは何も持っていなかったので、据え付けのベンチに腰を掛けた。
バッグの中から家の近所のスーパーで買ったおにぎりと、さきほど調達した烏龍茶を取り出す。風が強いので、ベンチの上にお店を広げちゃうと飛ばされそうなので、ごみはバッグの中のスーパーの袋に入れるようにする。
「やっぱり来てよかったね」
「うん、それに、エイプリルフールだもん。オヤジさんにはやっぱりエイプリルフールがよく似合うよ」
「小さい頃のこと覚えてる？」
「『雪が降ってるぞ』とかね」
「実際、四月に入ってから大雪が降ったことがあるからね」
「庭で計ったら２６センチ積もってたんでしょう？」
そんな会話をしながら、おにぎりを食べる。にしても、どうしておにぎりは外で食べると美味しいのだろうか。家んなかでコンビニおにぎりとか一人で食べてるとちっとも美味しくないのに。
母にそう言うと、「いつも自分で作っているものばかり食べてると、どんなものでも美味しいわよ。そうそう、また魚の形をしたパイを作ってね。あれ美味しかったわよ」
「シャブリのワインを添えて？」
「そうそう」
「でも今日は poisson d'avril だよ。魚の形のケーキを売ってるかもしれないよ。帰りにジョアンに寄ってみようか？」
「それもいいね」
芝生の上には鳩があちこち歩き回っていて、ようするに、お弁当のおこぼれを頂戴しようという魂胆なのだ。実際、一羽の鳩が、「わたしはおにぎりにもご飯粒にも興味はありません。でも、自分の目の前に落ちてきたらもったいないから食べちゃうかも」っていうような顔をして、ぼくの近くをうろうろしていた。
「ご飯少しやってみたら？」
母がそういうので、二、三粒をおにぎりから取って足元に落す。すると鳩は猛スピードでとっとっとっとっとと走ってくるとご飯粒を食べた。なんだか面白いのでもう少し。すると、他の鳩もそれとなくぼくの動きに注目していたに違いないが、とっとっとっとっととこちらへ向かって走ってくる。おいおいちょっと待てよ。そんなわけで母とぼくはおにぎりの何分の一かを鳩どもに供することになってしまった。
あいかわらず、風が強い。空はよく晴れている。
石屋さんに寄って、手桶を返した。
「ありがとうございました」
「中年の女の人」は、やっぱり「奥さん」かもしれない。
駅前にたどり着く頃にはぼくも母も結構疲れていた。そこで、駅前の喫茶店に入って一休み。
店が空いているわりには、時間がかかる。アイスティーとオレンジのシャーベット各２を注文して目の前に置かれるまでに少なくとも２０分はかかった。
シャーベットの量はずいぶん多い。新宿あたりとはだいぶ雰囲気が違う。でもまあいいや。今度、新宿の××にでも行ってみようか。それもいいわね。この歳になると、母親と一緒に歩くのもぜんぜん苦にならない。あるいはたんにマザコンなのかもしれない。それならそれでいい。
店のなかにはラジオが流れていて、それによれば今日は５月上旬の陽気だったそうだ。
さて、このお話もそろそろ幕でございます。長々お付き合い下さり、どうもありがとうございました。またの機会にお目にかかりましょう。では皆様、ごきげんよう。