もうそろそろ起きたらどうだ、という兄の声が聞こえました。でも声の調子から、兄もまた布団の中に居たに違いありません。
私は兄を背にして、たぶん夢うつつといえる状態にあったと思います。目の前には雨戸を立てたガラス戸とカーテンがあるはずでした。目を開けるとそれが見えるはずなのに、何度目を開けても自宅の壁が見えるのでした。
そろそろ起きたらどうだ、という声がまた聞こえました。でも、兄の方もいっこう起きる気配が無いのでした。
雨音のような音が聞こえていました。きっと雨が降っていたのでしょう。
そこは伯父の家で、酒屋と真珠の養殖を、伯父とその義弟でやっていました。
その地域は真珠の養殖が盛んで、今では海が汚れてすっかり駄目になってしまいましたが、当時はなかなか賑わっていて、養殖場の方へ遊びに行くと、威勢のいい声が飛び交っていたものです。
伯父は新しいものに目が無くて、当時まだ珍しかった外国産のワインを輸入していました。もちろん船便ですし、今ほど保存状態も良くなかったでしょうから、今私たちが飲んでいるワインとは較べものにならないと思うのですが、ワインといえば××ポートワインさえ滅多に手に入らない田舎で、フランス産とかドイツ産のワインを売っていたのですから豪毅なものです。たぶん、たいして高いワインじゃ無かったと思うのですが、今の値段に直すと一万円以上で売っていました。そのくらいで売らないと元が取れなかったのでしょう。
そんなものが売れるものかというと、ちょっとした宴会でもあると五本、六本と売れていったのです。つまり、そのくらい町が潤っていたのです。
だからそのときもワインが何本も開けられ、空になりました。
父と伯父とはそのあたりには珍しく二人だけの兄弟で、七歳違いでした。伯父は尋常小学校を出るとすぐに働き始めましたが、弟の成績が優秀だったので、応召する前に是非無理してでも上の学校へやってくれと言い残して旅立っていきました。
戦前からそのあたりの主要な産業は真珠だったのですが、まだ近代的な手法が確立されていなかったのと、若い者が戦争に取られて働き手も少なくなり、急速に寂れて行きつつありました。それでも祖父は父を中学そして東京の高等学校に行かせてやったのです。
追い打ちを掛けるように、真珠は贅沢品として規模の縮小を余儀なくされ、それでも祖父と何人かの有志は戦争に勝つか負けるかはともかく、戦争が終わった後のことを考え、真珠貝を根絶やしにしないように頑張ったのです。
父が高等学校から大学へ編入した年に、戦争は終わりました。高等学校に在籍していたとはいえ、実際には学徒動員で勉強どころではなかったそうです。理科系だったので徴兵は免れたのです。
伯父は戦地で負傷したものの、生きて帰ってきました。ちょうど父が終戦の翌年のお盆に帰省していたときのことです。
父などは「兄さんが帰ってきた！幽霊じゃなくて本物の兄さんだ！」と叫びながら町中走り回ったそうです。伯父は同じ年代の若い衆の中でもひときわ人望があったので、すぐにたくさんの人が家に駆けつけました。
ところで、父がその夏のお盆に帰省していたのにはもうひとつの理由があったのです。結婚を許して欲しい、というのがそれでした。今で言うところの「できちゃった婚」というやつでしょうか。恩師のお嬢さんとお付き合いしているうちにそういうことになってしまったのです。
恩師は当時としては変わり者だったらしく、あっさり許してくれたそうです。
でも、祖父と祖母は「恩師のお嬢さんに手を付けた。恥を知りなさい」と父を叱責していたのですが、そこへ伯父が帰ってきてうやむやになってしまいました。
数日間は宴会が続きましたが、それも一段落付いたところでやっと父は伯父に相談しました。もちろん怒られると思って。
しかし伯父は「解った」とだけ言うと、祖父と祖母を説得してしまいました。居間から出てくると、廊下でおろおろしていた父の肩をぽんと叩いて、「別嬪さんか？」と言い残して廊下をすたすたと歩いていってしまったそうです。
その子供が私の兄です。
兄と私は三つ違いです。ちょうどその旅行のとき――本当は旅行ではなく、祖父の一周忌だったのですが――兄が十九、私が十七。兄は早生まれなので、そのときは二歳違いでした。どちらも未成年なのですが、ここへ来ると必ず飲ませられます。まあ飲め、と伯父が飲ませるのです。子供だろうと何だろうと。
奇しくも祖父は旧盆の日に亡くなりました。私は葬儀の日にはじめて父が泣くのを見ました。それは何か不思議な光景でした。
伯父はいつもと変わらず、立派に喪主を務めました。
父は当時大学の教授で、しなければならないことがたくさんあったのですが、忌引きの後も休暇を取って休みを伸ばし、昼間はずっと寝ていて、夜になると起き出して酒むっつり黙って酒ばかり飲んで過ごしていました。
妹だけがそれに付き合って、伯父の所から送られてきたワインを一晩に一本ずつ空けていました。母さえもいたたまれなくて台所を片付けると私や兄の所に逃げてきていたというのに。
数日後のある晩、それまで黙って飲んでいた父が突然、話し出しました。私はタイミングを失って、仕方なくその場に留まりました。父はひとりひとり戦争で亡くなった友人の名前を挙げて、思い出話をして、最後にはあいつは本当にいい奴だったと締めくくるのです。妹はワインの瓶を抱えながら、いちいち相槌を打っていましたが、私はどうしたらいいのか分からなくてただ神妙な顔をして聞いていました。
友人の名前をひととおり言い終わると、父は茫然自失といった体でした。私は不思議でなりませんでした。父は祖父の死を悲しんでいたのではなかったのかと。
突然、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と妹が言いました。父ははっとして、妹の言った言葉を繰り返しました。
「風立ちぬ、いざ生きめやも――」
その翌日から父は休暇を切り上げ、仕事に復帰しました。
私は酒が好きになれなかったので、豪毅な伯父をいつも恐れていました。その私が恐れる様がまた面白いらしく、あまり無理強いはしませんが、代わりにあれも食え、これも食え、と勧めるのでした。
妹は幼少のみぎりから酒の味を覚え、家に帰るとすぐに「おじさんの家に行ってお酒飲む！」なんて駄々をこねてました。兄は舐めるようにゆっくり飲むのですが、伯父はそれを見て、「こいつは将来いっぱしの人物になるね」なんていうのですが、兄はありがとうございます、とさらっと流すのですが、伯父にはそこがまたたまらないようなのです。
伯父は、戦争の傷がもとで子供を作れない身体になっていました。形だけでもと祖父と祖母が見合いを勧めるのをきっぱり断り続け、そのかわり隣町の戦争未亡人を義理の妹として迎え、婿を取って家業を続けているのです。その二人の間にも三人の子供がいて、小さい頃は私たちが遊びに行くとものすごい騒ぎでしたが、誰よりも楽しそうにそれを眺めていたのが伯父でした。
そのときはもう、みんな大きくなってしまっていたので、私と兄と向こうの長男（二番目）でわけも分からず難しそうな話をしたりしていました。妹は、話し込んでいる伯父と父に寄りかかって、ワインのボトルを猪口に注いでちびちび飲んでいて、決して女たちの輪（祖母、母、叔母、叔母の二人の娘、お手伝いさんなど）には入ろうとしませんでした。
ワインのフルボトルを片時も離さず、伯父と父の話に耳を澄ませて、ときどき相槌を打ったりすると、伯父も父も嬉しそうな顔をしていました。
妹は全然酔っぱらわない。いわゆるザルというやつです。猪口で飲んでいたのはあっという間に飲み干してしまわないため。そのとき妹は十二歳。
便所に行ってから、酔い覚ましに伯父の下駄を突っかけて表に出ると、満月にはもう少しという月が出ていました。見事な傘を従えて。ぞっとしました。街灯など無く、人っ子一人、猫の子一匹いませんでした。道路より一段低い町並みの上に大きな傘を従えた月。
突然誰かが私の左手を握りました。妹でした。なんとなく妹が来るような気がしていたので驚きもしませんでした。
「こんな所にいたのね。なかなか帰ってこないから便所で倒れてるんじゃないかって、みんな心配して、探しにきたの。ねえ、あの月のまわりの輪っか、すごくきれいだね……お兄ちゃん、震えてるよ。だいじょうぶ？ 風邪引いたんじゃないの？ 熱あるんじゃないの？ ちょっと屈んで」
熱なんてないことは分かっていましたが、妹を納得させるために少し屈みました。妹は自分の額を私の額にくっつけて、熱はないみたいだね、じゃあ大丈夫だねと玄関に駆け込んで行ったと思うと、踵を返して私に飛びついたのです。その拍子にバランスを崩して二人とも道路に倒れました。道路といっても舗装なんてしていなくて、砂利さえ敷いてないのです。でもおかげで頭を打つこともなく、ひんやりとした土の感触がシャツ越しに伝わってきました。
妹は私の首にしがみついたまま、明日天気が良かったら、朝ご飯の前に散歩に行こうよ、約束だよ。嘘付いたら針千本のーます、と小指を絡ませるのでした。もう片方の手は私の首にまわしたまま。
「大きいお兄ちゃんも好きだけど、お兄ちゃんのことがいちばん好き。この世の誰よりも好き。将来結婚する。約束破っちゃダメだよ」
自分の言っていることがどんなに無茶なことか分かって言っているのです。無謀で、利発で、冒険者なのです。
妹は私の顔を両手で挟むと私の唇に自分の唇を押し当ててきました。私はされるがままになっていました。妹にはあらゆる意味で敵わないのです。
焦点の合わない距離で動く妹の顔をぼんやりと眺めているうちに、妹は舌を私の口の中に突っ込んできて、私の舌先に絡めようとするのです。酔っていたせいもあるし、もともと反射が強いほうなので、吐きそうでした。口を固く結びたいところでしたが、まさか妹の舌を噛み切るわけにも行かず、拳を作って掌に思い切り爪を立て、その痛さに気持ちを集中しようとしました。
だ液が口の中に流れ込んできましたが、何かが腐ったような嫌な味がしました。それでも私はどうしても妹を押しのけることができず、ひたすら吐き気を堪えていました。
それがどのくらい続いたのか分かりませんが、妹は唇を離すと、ぐったりと私の上に覆い被さりました。まだ胸なんて無くて、互いの肋骨がぶつかり合うような感じでした。
「約束だからね。約束破ったら、お兄ちゃんを殺して私も死ぬからね」
そういうと妹は体をごろんと転がして。私と並んで道路に仰向けになりました。
「きれいだね、何もかも。生まれてきて良かった。なんで猫じゃらしまでぴかぴか光っているのかな」
それからぴょんと跳び上がるようにして立ち上がると、「明日の朝、天気が良かったら散歩に行くからね。約束だよ。風立ちぬ、いざ生きめやも――」
それだけ言うと、玄関の中に駆け込んでいきました。踵が光って見えました。裸足だったのです。
私は背中の泥を払ってから、それが容易に落ちないことを悟ると、寝室に戻ってシャツとズボンを変えて、宴席に戻りました。
「お、お色直しか？ 花婿みたいなことをするな」と伯父が笑いました。父は何があったのかと聞くので、玄関で月を見ていたら妹に突き飛ばされて転んだのだと説明しました。みんながそれを聞いてドッと笑いました。いかにもそんなことをしそうな妹と、ぼけっと月を見ていたらしい私の取り合わせがあまりにリアルだったからでしょう。
妹は知らんぷりしてさっきと同じようにワインを飲んでいました。
階段を昇ってくるリズミカルな音がして、勢いよくふすまの開く音がしました。
あ、お前朝から飲んでるのか！ と兄が大声で叫んだのですが、その声さえもくぐもって聞こえて、ちっとも現実感がないのです。超絶的に眠くて、目を開けることさえできないのです。
耳元で妹の声がしました。
「ゆうべ約束したでしょ？ 天気が良かったら散歩に行くって」
でも私の耳には確かに雨音が聞こえていたのです。夕べ妹には言いませんでしたが、月傘の出た翌日は雨になりやすい、それは温暖前線が近付いてきている証拠だからです。雨音も妹の声も確かに聞こえているように思えました。
「いい加減に起きなよ。外はいい天気……でもないけど、曇ってて涼しくて気持ちいいよ。散歩に行こうよぉ」
兄の、もう少し寝かせといてやれよというさっきとは裏腹の言葉が耳に入ってきました。兄も、本当はもう少し寝ていたかったのかもしれません。
「ねえ、出掛けようよ、外は涼しくて気持ちいいよ」
グリーン・シー
ブルー・シー
切ない気持ちにピリオド打って
という、どこで覚えたのか勝手に作ったのか知らない歌のフレーズに合わせて私の身体を揺するのです。そのリズムがあまりに心地よくて、いつの間にかカーテンも開けられ、雨戸も開けられ、私の身体はハンモックに乗ったように窓に近付いたり、遠ざかったり、しまいには窓ガラスをするっと抜けて庭へ飛び出しました。梅の木をすり抜け、町を飛び越え、その終わったところにある砂丘に放り出されました。そこには兄と妹が待っていて、まったく××兄ちゃんったらいっつも遅れるんだから。いや、そこがこいつのいいところなんだよ、と両側から手を捕まれ、立ち上がらされました。
曇天の下に不思議と明るい海が広がっていました。
「ねえ、どうして曇ってるのにあんなに海が明るいの？」
反対の手にはワインのボトルが握られていて、ときどき喉を潤すのです。
それはね、商品にならない真珠を長い間ここに捨てているうちに、遠浅の海の底がすっかり真珠色になってしまったからさ、と冗談だか本当なんだか解らないような口調で兄が説明します。妹はふうん、と納得したようなしないような返事をして、またワインを一口飲みます。そしてまた、
グリーン・シー
ブルー・シー
切ない気持ちにピリオド打って
という部分だけを何度も繰り返し歌うのです。それに対して私の口を突いて出た言葉。
風立ちぬ、いざ生きめやも――
その声は砂丘に吸い込まれず大きく響いたので、ぎょっとしました。兄と妹は一瞬きょとんとしてから大笑いしました。
そしてときどき馬鹿笑いをしながら、手を繋いだまま、いつまでも砂丘から砂浜のあたりを彷徨い歩き続けたのです。